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彼女の名はヨハンデルセン・ジョセフィーン。牧師の娘で六歳。スウェーデンの小さな村に住んでいます。 とはいうものの、これは彼女の本当の名前ではありません。アンナ・グローが本名。悪くはないけれど、まだちっちゃい自分には似合わないと思った彼女は自ら名前を作るのです。似たエピソードが『赤毛のアン』にあります。アンの場合、コーディリアと名乗りたかったのに、里親のマニラから馬鹿げていると一蹴され、せめて「Ann」ではなく「Anne」と呼んでほしいといいました。ここにはアンが微細なイメージに敏感なことがよく表れています。 一方この6歳の娘はといえば、まず、アンヌ・グローをなんども書いて練習してから箱に入れ、戸棚にしまってしまう。そして、この村にはいないジョセフィーンを選択し、村に多い名のヨハンとアンデルセンを足してヨハンデルセンと名乗るのです。 村にたった一つしかないジョセフィーンと、村中の名前の代表のようなヨハンデルセン。彼女は個性と普遍性を同時に身につけた子どもというわけです。そして、「そのうち女の子はアンヌ・グローのことなどすっかりわすれてしまいました」。 名前はその人を示す重要な記号ですが、彼女は親からもらったそれをわすれて、新たに自分自身で作ってしまった子ども。 ごっこ遊びなどでそうしたことはよくやるけれど、それを徹底したのが彼女なわけです。というか、この物語は、私たち大人から見れば四六時中ごっこ遊びをしている子どもを描いていることとなります。 危険だから泳がせないようにと父親が話した「溺れると天使になってしまう」川で水浴びをする彼女は、天使なんかになりたくない。だから、ジャムにするために食べることを禁じられているサクランボをおなか一杯食べます。これで悪い子になったから天使にはされないというわけ。やってきた庭師が絵に描かれた神様とそっくりなので、きっと天使にしにきたんだと信じ切る。彼女にとても優しい近所のおばあさんはたくさんのお菓子をくれるけれど、実は魔女で、私をいつか食べるためかもしれない。 彼女は自分の作り上げた世界観で日常の出来事を判断しています。それはとてもユーモラスに感じられ、そしてそれでかまわないのですが、大人が見て奇妙なジョセフィーンの考えや行動でも、彼女にとっては理屈にあっている点に注目。 私たちが忘れてしまった子どもの視点の一つを再び手に入れることができるかもしれなせんよ。(ひこ・田中) 子どもの本だより(徳間書店) 2001.011
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