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金子の歌は、『大漁』のように最後に反転し、逆から照射するものが多い。視点を固定したまま読み始めた読者はそのとき、めまいを起す。それは、見る側が見られる側でもあることを知る瞬間でもある。そのことで金子が、魚や土や花などを人間と同等に見ていたとして、例えば母性的詩人、そうでなくともエコロジーの詩人とみなすのは容易い。が、そうなら何故彼女は大羽鰯や芝草の側から語り始めないのだろう。いつも「私」の側から始めるのだろう? 一方の視点から他方のそれへの反転という構造は、外へ向って開かれているかのように見える。けれど、大羽鰯もまた金子自身だと想像してみたとき、むしろそれは閉じられている。漁をする側でありつつされる側である二重性。それを金子は描いたのではないか? 『小さなうたがい』を読んでいるとき、私はそんなことを考える。この歌は可愛いだけでは読み流せない重い主題を抱え込んでいる。まず、「あたしひとりが/叱られた。」の二行で、他に叱られなかった者がいることを前面に出し、それが理不尽な叱りであり、悔しい思いをしている「あたし」を金子は鮮やかにクリップしてみせる。次に「女のくせにってしかられた。」と記すことで、理不尽の所在をはっきりと指摘する。しかし、それを解消する術を持っていないことも「あたし」は解っていて、自らに強引に納得させるために、「兄さんばっかし/ほんの子で、/あたしはどっかの/親なし子。」とズラす。最後にその重さから逃れようとするかのように「ほんのおうち/はどこかしら。」と疑問を宙空に投げる。本当の娘なのは知っているのに、親なし子と思おうとする「あたし」の二重性。だからその疑問は間違いなく「うたがい」であるはずなのに、金子はそれに「小さな」を付けて和らげることも忘れない。 同じ主題に『女の子』がある。「女の子って/ものは、/木のぼりしない/ものなのよ。/竹馬乗ったら/おてんばで、/打ち独楽するのは/お馬鹿なの。/私はこいだけ/知ってるの、/だって一ぺんずつ/叱られたから。」ここでの金子は、「女の子」のしてはいけないことを列記し、それを知っているのは「私」がそれをして叱られたからだと、ユーモアとも取れるフレーズで歌を閉じてみせる。しかし、こんな風にして自分を納得させなければならない女の子の気持ち。金子はそれを書き留めてくれたのである。(ひこ・田中)
河出書房新社 文藝別冊2000/01/01
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