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「トムは、涙がながれるのをぬぐおうともしないで、裏の戸口のところにひとりで立っていた。それは、くやし涙だった」。理由は弟のピーターとの休暇を裏庭のリンゴの木の枝に小屋を作って遊ぶ計画にしていたのに、彼がはしかにかかってしまったから。まだのトムは叔父のアパートで暮らさなければなりません。それは誰かのせいではなく、もちろん自分のせいでもない突然の疎外であるだけに、その悲しみや孤独はどうしようもなくトムの心に突き刺さります。「子どもであることの悲しみ」とでも言えばいいでしょうか。と述べれば大げさな物言いのようですけれど、去年でも来年でもだめなのです。トムにとって、今年のこの休暇にピーターと裏庭で遊ぶこと、それがかけがえのない重要な喜びであるのです。 ですから、お屋敷をアパートにした叔父の家で眠れないトムが13回時を打つ大時計に誘われるようにして、「裏庭」に出て行き、もう一人の「子どもであることの悲しみ」を背負ったハティとめぐり合うのはある種当然の成り行きだといえます。ヴィクトリア朝時代の子どもハティは孤児で、叔母の家に住まわせてもらっていますが、やっかいもの扱いされています。少公女セーラと同じく、ハティもまた、自分を囚われの王女であると想像することで、かろうじてその孤独のなかで自分を保持しようとしている。「わたしの手にくちづけしてもよろしい」なんて、トムに言うハティ。 彼らは(唯一ハティの理解者である園丁のアベルを除いて)互いにしか互いの姿は見えません。それは二人が「子どもであることの悲しみ」を今、何より良く実感しているからですね。だからトムは、叔父夫妻に「ほっておかれた方がどんなにいいかしれなかった。ほんとうの生活、おもしろい生活は、夜になって庭園へ出ていったときにあるのだ」と思い、時空を超えた出会いにもかかわらず、「じぶんは子どもだということ、この庭園は子どものものだということ、そしてハティはじぶんの友だちだということのほかにはなんにも考えなくなる」。 物語の素晴らしい結末を書くと、未読の方に怒られますので詳しくは触れませんが、これだけは言わせてください。「子どもであることの悲しみ」とは、子どもであるための重要な要素であり、大なり小なり誰もが子ども時代に経験しています。ところが、それを忘れてしまうのが大人の証だと思ってしまっている大人は多いのです。この物語だと叔父がそうですね。でも、そうじゃない。ハティに関しては未読の方のために秘密にしますが、トムは決して忘れないでしょう。それこそが、本当に大人となる条件なのです。(ひこ・田中)
徳間書店 子どもの本だより 1998/11,12
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