とどろく雷よ、私の叫びをきけ

ミルドレッド・D・テーラー著
小野和子訳 評論社 1981

           
         
         
         
         
         
         
         
    
 子どもを意識して書かれた文学には、いつの時代にも、どこの国にも大きい二つの流れがあって、一つはいうまでもなく、あくまで文学そのものに価値をおくものであり、もう一つは、広い意味での教育性(それが悪くすると、大人の一方的な教訓を与えるものとなる)に重点がおかれているものである。
『とどろく雷よ、私の叫びをきけ』(Rol of Thunder , Hear My Cry,1976)を一読して、1930年代に、確固として存在した一つの家族史にふれた思いがした。現代の子どもたちに、こんなことがあったのですと、心からの声をあげているのだ。わが国でも、敗戦から何十年も経てはじめて自伝的な戦争児童文学が輩出しているのと、作家の衝動としては同じものであろう。語りつぐ歴史である。
 ミシシッピーに住むローガン一家がこの作品の舞台で、兄と二人の弟をもつ九歳のキャシィが語り手となっている。一歩、家から出ると、さまざまな差別と偏見に出会わせざるをえない状況の中で、近所の家が焼かれ、黒人であるがゆえに殺されていく事件が引き続きおこっていく。ローガン家は、祖父の代に土地を買い取っていて、その土地に買い足した土地の借金を支払うために、父親が出かせぎに出ている。どんな無理をしても土地を守ろうと年老いたおばあちゃん、教師をしている母親、父親の弟とみんな力をあわせている。土地があるから生き延びていくことができるという信仰のようなものが一家を支えており、土地がなく小作として商人や地主から搾取されるままになっている他の家族よりは、強い立場に立つことができる。通学仲間のティジェーは学校の勉強ができなくて落第し、おもしろくない日常を脱しようと、白人のシムズ兄弟とつきあうようになり、いきがかりでピストルを盗みに押しこみ強盗に入ってしまう。見張り役であったにもかかわらずその罪をかぶせられ、死刑になろうとしている。
 奴隷制度から生じたさまざまの差別、理由ない人種偏見、歴史を通じてずっと行なわれてきた搾取のされ方などが、一人の少女の感受性豊かな眼を通して、はじめは静かについでいらだちがたかまり、最後にはしぼり出すような叫びで明らかにされていく。黒人によるアメリカの歴史は、伝統的なフロンティア精神や栄光に飾られたアメリカ史と根本的に違っているのである。
 ローガン一家にとって土地が大切なものであると語られれば語られるだけ、その個性的解決が気になるし、父親の弟が、地主と同じ新車にのってさっそうとあらわれる場面でも、ただ描写としてそう書いてあるだけで、どうしてそうしたものが入手できるのかその背後がない点など、一家の歴史がそれをつきぬけて、読者にも共有できる普遍性をもつものに至っていないのは、フィクション化にあたっての作家の力量の不足であろう。(三宅興子)

図書新聞1982/01/23(第287号)

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