トムは真夜中の庭で

フィリパ・ピアス
高杉一郎訳・岩波書店

           
         
         
         
         
         
         
     
「トムが駆けあがっていくとね、ふたりはしっかりと抱きあったの。まるで、もう何年もまえからの友だちみたいで、けさ知りあったばかりだなんて、とても思えなかったわ。それからねえ、アラン、もっとふしぎなことがあるのよ。.あなたは、きっとばかばかしいといって笑うでしょうけど……もちろん、あのバーソロミュー夫人は、トムより心もち大きいか大きくないかっていうぐらいに小さくちぢんでしまったおばあさんてすけどね……トムは、相手がまるで小さな女の子みたいに、両腕をおばあさんの背中なかにまわして抱きしめていたのよ。」
【トムは真夜中の庭で】は、グウェンおばさんか夫のアランにこう語るところで幕を閉じる。トムは弟のピーターがはしかにかかったため、アパートに改造された古い家に住んでいる子どものいないグゥェンおばさんの家にあずけられる。ここでトムは無理解なおじやおばに苦しめられ、眠れぬ夜がつづくが、ホールにある大時計が十三という時を打つのを耳にし、階下に忍び降り、裏ロの戸を開ける。トムの目の前にはすばらしい庭園が広がっていた。物語は、昼間は狭い空き地にすぎないその不思議な庭園で、トムがごハティという少女と知り合い、ともに遊び、語り、そして毎夜会うたびにハティがどんどん成長し、卜ムがおばさんの家に別れをつげるときには、トムをおきざりにして大人になっていく-というプロットである。
 ピアスは最後まで慎重に種明かしをふせてはいるが、トムが毎夜歩いていた庭は、アパートの持主でもあるベーソロミューおばあさんの夢の世界であったのだ。弟ピーターとの楽しい夏休みを失い、無理解な大人たちに縛られて、満たされないトムの想念は友愛をそして遊びの時間を求めてさすらう。同じ夜夫に先立たれ世事からも疎外された孤独なバーソロミューおばあさんは、自分がもっとも幸せであったころの夢を見る。何十年も前に実在した庭園で、トムと少女ハティは出会うのである。
 それにしてもこの最終シーンは強烈な印象を読者に与える。老婆と少年の抱擁-老いと幼さ、ここには一つの類似点がある。それは煩雑な社会がその運営上余り必要としない人たちであり、故にフラストレーションを背負わされた人たちともいえるが、ピアスはそういう面よりも、子どもが内質としてもっている価値(そして社会生活に煩悩する大人たちよりも老人の方がよりよく覚えている価値)を大切にしようとしている。一言でいえば、愛する心とでもいえばといか。無心に遊び、すなおに感情を出し、想像力が豊かで、そして何よりどちらも自分の孤独について隠そうとしない-そういった精神‐というものは<愛>そのものであり、ときには時間をさえ変化させ、新たに創りだすマジックを秘めている。そう思うと完全にみとめあったその瞬間に、ハティはむかしのままの少女として、トムの抱擁をうけるのである。おばあさんは、じぶんの中に子どもをもっていた、私たちは、みんな、じぶんのなかに子どもをもっているのだ」というピアスの言葉は限りなく重く美しい。
 だが、ピアスは『トムは真夜中の庭』で甘く美しい芳香に満ちた愛の<時間>をとりだしてみせただけではない。この作品が例えば時のファンタジーとしても『飛ぶ船』(ヒルダ・ルイス)や『グリーン・ノウの子どもたち』(ボストン)と違う点、またロマンスとしても『リンゴ畑のマーティン・ピピン』(ファージョン)や『フランバーズ屋敷の人びと』(ぺイトン)と違う点、それは「『時間」が人間の上にもたらす変化」にあるのはいうまでもないが、今一つ重要なのは、子どもから大人へ、人間的成熟へと向かう多感な少年少女期の現実を掛け値なしにありのままにみつめていこうとする確かな視点の存在である。時間の本質を見極めようとするトムの行動を追うピアスの筆は、子どもの時代から一歩踏み出す少年の心理にわけ入り、その感情のひだを手ごころも叱責も加えず、見事に映し出していく。
 つまりピアスはトムに<人間>をみているのであり、一個の人格として認めているのであ
る。幼さ故の挫折も淋しさも悩みも、人間としての愛の重さをつかみとる試練、いやそれこそが人生であるといいたいのだろう。
 ピアスは、四年後に『まぼろしの小さい犬』を公表するが、この作品の最終場面はさらに酷しい。べン少年が想念の中でつくり上げ、愛したまぼろしの犬とこは似ても似つかない茶色の大きな犬-その犬が夕やみのむこうに去っていくとき、初めてべンは現実の犬を見、現実の愛の重さに気付く。「ブラウン!」と必死で犬の名を呼ぶ少年の叫びは限りなく美しい。ファンタジーとリアリズムのこの二大傑作に共通しているのは、内在的価値をもった少年たちが生きていく重みの中で傷つきながら、その価値を守り、さらに豊かに変質させて人間的成熟へ向かう姿を浮き彫りにしている点である。が、『まぼろし』に比べて『トムは』の方が構成の級密さやその象徴的手法により一歩抜きん出ているのではなかろうか。トムとハティの無垢の象徴であった「真夜中の庭」は二人の成長により、壁の向こうの世界へ誘う。ハティがトムを追い向いて大人へ向かうにつれて、低地地方のイーリーへ移り、そして<川>を下る。幼いころ舞台となった生家の庭で遊び、やがてそこを出て蛇行する川の流れのように人生を歩いたピアスは、自分の中にいる<子ども>をいつくしみながら、この作品を書いたのだろ う。だからといってピアスは、人生の明るい面ばかりを見せて少年たちを安心させようとはしない。本ものの喜びや愛や笑いというものは、悲しみや憎しみや涙と混ぜ合わされてでき上っていることをちゃんと知っているからである。ともあれ、これほど感動的な人間の物語を時間のファン夕ジーの中に結晶させた作品を私は知らない。タウンゼンドがいみじくも、「『傑作』ということばは軽々しく使うべきではない。わたしは今『傑作』ということばを第二次大戦後の二十五年間の中で一作だけに使いたいが、『トムは真夜中の庭』こがそれに当たる」(A Sence of Story 1971)といったことにまったく同感である。(松田司郎)
世界児童文学100選(偕成社)