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1「わたしの作品は水である。」 世に出てから百年にもなるのに、マーク・トウェインの生み出したトムとハックという二人の少年ほど年老いることなく愛され続けている人物は珍しい。 「もしもだれかが、おれたちふたりのまえに、探偵小説とパイとをおいたとしたら、なかよくわけろなんていうことはない。おれはパイにとびつかずにいられないし、トムは探偵小説にとらずにいられないのだから。まあ、人それぞれってところかな。それでけっこうではないか。」(白柳美彦訳『名探偵トム・ソーヤー』18頁 実業之日本社 1976)とハックが語っているが、トムのロマンティシズムとハックのリアリズムは、『トム・ソーヤーの冒険』(1876)と『ハックルベリィ・フィンの冒険』(1885)において短編にみられるような(教えられたことをそのままやって善行をつむのに非業の死をとげる『感心な少年の話』や、一から十まで教訓やモラルを破るのに立身出世する『悪太郎の話』など)作者が心に感じていた真実を、ほら話風に仕立てあげ、宗教への風刺だけが浮かび上ってくるような少年像と違って、見事にとけあってこの二作では生き生きとした存在感があるのである。 十代から地方新聞の記者としてコッケイな味付けのしてある文章を数多く書き、当時の辺境の娯楽であったほら話にヒントを得て書いた『キャラヴェラス郡の有名な跳び蛙』(1867)で、作家として登場したトウェインは、素朴で粗野な語り口を特長とするユーモアにとむ話を書く一方、同じころ講演者としてもスタートして人気が高くなっていった。流行していた「文学的コメディアン」(亀井俊介『サーカスが来た!』東京大学出版会を参考)の仲間にはいることは確実な収入を得ることでもあり、自作の朗読や旅行談、ほら話を語りながら各地を旅して歩き、社会や人間を批判したとしても、直接面前にいる聴衆を非難することのないように、自分自身を、無知な臆病者であって、しかも冒険好きで世俗的な人間であると定義した上で演壇に立つことを習得していった。こうした仕事によってねり上げられたことが自由な文体と形式を持った作品にも反映していく。トウェインは、ノートに「わたしの作品は水である。偉大な天才作家達の作品は酒である。誰にでも水は飲める。」と書きつけていたことは有名であるが、彼のいう「水」、誰にでも理解できる、楽しめる作品ということが、児童文学 として読まれることにもつながっていった。 トウェインは、『王子と乞食』の中で、王子の口から「いまに自分がもとの位にかえった時にも決して子供というものもばかにはすまい。苦しみの時に信じてくれたのは子供たちばかりだということはいつになっても忘れまい。年をとってりこうぶってるやつらはみんなわたしの言葉をばかにして、うそつきにしてしまったが、幼い子供というものはありがたい」(村岡花子訳 181頁 岩波文庫)と子ども賛美を語っているが、自分の目で物をみ、自分の価値観を大切にすることは、トウェインのもう一つの特長であり、彼の旅行記にもっともよくあらわれている。『赤毛布外遊記』では感じたままを率直に書き、た とえ権威ある専門家が評価しているものでも、先入観にとらわれることのない新鮮な驚異の眼を失わずにいる自由さが発揮されている。 ロマンティシズムとリアリズム、ユーモアと諷刺、大衆娯楽と広い意味の教育性、子どもの目とおとなの目、作家と事業家、といった二面性をもつトウェインのバランスは、『ハックルベリィ・フィンの冒険』あたりを頂点としてしだいにくずれ、晩年には、底流をなしていたペシミズムが表面に出、『人間とは何か』とか『不思議な少年』に行きついてしまった。そのバランスが少しずつくずれる時期にトム・ソーヤーが活躍する二つの作品が出版されている。通常、研究書では、「駄作」「大したものではない」(『18−19世紀英米文学ハンドブック』643頁 南雲堂)とにべもなく片付けられている『トム・ソーヤー外遊記』Tom Sawyer Abroad(1894)と『探偵トム・ソーヤー』Tom Sawyer Delective(1896)であるが、やはりその通りであるということを確認しておきたい。 2 『トム・ソーヤー外遊記』 ミシシッピー川を筏で下ったハックとジムのコンビにトムを加えて旅をさせてみたら、という着想だったのだろうか。セントルイスに軽気球を見物にいって思わぬ旅に出、製作者の教授が海に落ちたあと、目的地のロンドンをそれてアフリカの上空を3人で飛ぶという旅行記である。トウェインは、この作品を書いているころヨーロッパを家族とともに旅行中であり、トウェインの作品の中で旅のもつ意味は重いものがあるといってもよいと思うが、『トム・ソーヤー外遊記』では、気球というジャーナリスティックな材料とアフリカの風物の紹介、トムの知識を語るだけで旅そのもの、人間そのものを描けていないので中途半端な作品になっている。 ユーモアという点でいえば、ほら話の片りんは出している(オアシスで泳いでいるとライオンが出て来て服をおいたまま逃げたあと、その服をライオンたちがよりわけていてするけんかの場面など)。としても、自由に連想するにしたがって脱線につぐ脱線を重ねてゆくところまでは広がっていかない。 また、語りということでも、筏の上にいたハックにとって旅は、与えられたものをそのまま受け入れ、事件の一つ一つが驚きであり、ひとときひとときが喜びの時間であったのに比して、トムが登場するあたりから次第に調子が落ちてきたことと同じことが、もっと悪いかたちでこの作品では出ている。トムの博識、理屈によって説明のついたものとして物事を見、結果的には、トムの知識によってハックとジムのおろかさ、ばかばかしさだけが印象に残り、三人の人物の特長も、からみあいも何も書けなくなってしまっているのである。地図、時間、太陽の自転、蜃気楼の知識などのづれをよむと、トウェインはよく語りのコツとしてユーモラスな話は、真面目に語られ、語り手がその話をおかしいと思っていることをきき手に悟られないようにすることだと述べているが、当時としての新知識も珍しい風物も今日では、興味をひかなくなっていることもあって、ハックが真面目に反論するところなどかえってしらじらしく面白くもなんともなくなっていて無残である。中でもジムが砂あらしでたまった砂を捨てる分担で五分の一をとるというトムに文句をいって、自ら十分の一にし、「はじめにいうことを いって持ち分をかえてもらって助かっただ。いまだってこんなにあるだから、まえのが思いやられるだ」(前掲書 260頁)というのを二人して笑いに笑い、「ジムはどんなわずかなことをしてもらってもありがたがる。ほんとうに、人に感謝することを知っている黒んぼうだ。皮膚は黒いが心はおれたちとおなじにまっ白だ」(261頁)とハックに語らせている場面では、ジムのやさしさに打たれていったハックの面影はどこへやら、筏の上でジムのためなら、「地獄に行く」と決意したハックも、気球の上では、トムによって骨抜きになり、何も見えなくなってしまっている。 3 『探偵トム・ソーヤー』 諷刺と探偵が結びついて読ませる短編をいくつか書いているトウェインであるが、探偵小説の要素だけはたっぷり入っているが、諷刺の方はもう一つになった作品である。ハックを語り手として、『ハックルベリィ・フィンの冒険』の後の方に出てきたトムのサイラスおじさんのアーカンソーの村へ二人が訪れたところで事件がおき、おじさんの娘に求婚して断られたプレースが恨みのためおじさんを犯人にでっち上げるが、トムの推理で意外にも身近なところから真犯人があがるというプロットに、双生児、変装、幽霊、殺人、裁判という道具立てをそろえている。人間の憎悪が復讐になるという動機づけも平板である。 前作もそうであったが、誇張された点がほら話までいかず、単なる作為が目立つというところでとどまっているのが、例えば、シャーロック・ホームズをアメリカにつれてきて科学的な状況判断によって犯人をあげるという方法で見事に失敗させ、理性よりも直感で真相をあばいていく『二重構想の探偵物語』などと比較してみても物足りなく思われるところである。 推理のおもしろさに重点をおいているのに、読み進んでいく上であまりスリルが感じられないことと、他の作品には時に漂っている不思議なムードがたちこめないのも作品がうすっぺらく感じられる理由になっている。 4 時のふるいをかけると マーク・トウェインが長い間、正当な評価をえられなかったのは、数多い駄作も結構よませる力があり、新鮮な着想を何より大切にしていたのでふるいにかける時間がかなりかかったことがあると思われる。 「マーク・トウェインの不幸は、記憶のずばぬけたよさと選択を忘れた饒舌にあった。」(浜田政二郎『マーク・トウェイン』66頁 研究社 1955)といわれるごとく、着想の新しさと、ジャーナリスティックな珍しさと、テクニックだけでは、何ともならない作品になる見本のような二作であるが、1890年代以後ペシミズムに傾いた作品を書きはじめる転換期にあって、トムのロマンティシズムとハックのリアリズムが混在することなく、また諷刺や社会批判もさえず、トウェインの二面性のもつバランスがうまく作動していない作品としかいいようがない。トウェインの手からわき出た水にも、様々の味があるし、時がたてば、流れてなくなってしまうのもあり、くさっていったものもあり、蒸留水のように無害なものもまたあるのである。 学校教育や教会に代表されるような過去の遺産の重圧を持つことなしに自立し、自由な眼を持ちつづけたトウェインの無階級的なよさは、ハックの筏の上から見た世界を表として、一切の虚飾をとり去って語った晩年のトウェインの悪夢のような世界を表として、デリケートなバランスの上にだけ、はっきりと認められるのかもしれない。
テキストファイル化いくた ちえこ
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