隣の家の出来事

ヴェリ・フェアマン
野村滋訳/岩波書店

           
         
         
         
         
         
         
     
 この作品は、私が選んだものではなく内田さんがこのサークルに在籍されていたころに例会作品として推薦されたものである。今回、私がこの作品を読み感じたことをここに述べたいと思う。
 作者のフェーアーマンは、苦学して教師となりその教員時代に作家活動を始め、主に社会問題をテーマにした児童向けの作品を数多く手がけた。この『隣の家の出来事』もドイツ社会におけるユダヤ人への人種差別と迫害をテーマにしている。
 第二次大戦中、ナチスドイツ軍が600万人とも言われるユダヤ人の命を、強制収容所で奪ったという事実は、今日世界でも周知の事実である。しかし、この物語は、その40年も前に実際に起きた出来事である。
 ある日、ドイツの田舎町クサンテンで子とも殺し事件が起きてしまい、人々はユダヤ人の仕業だとうわさする。そして、善良なユダヤ人であるワルトホフがあらぬ嫌疑をかけられて、犯人として担ぎ出されてしまうのである。うわさは、みるみるうちに町の外まで広がり、一家は次第に孤立していき、昨日まで親しくしていた人たちがよそよそしくなり、彼らに悪意を感じていた人たちは、露骨にそれを表し始めた。
 それは、美しい娘のルートや父を敬愛するやんちゃな少年ジギもその例外ではなかった。ルートは、ボーイフレンドのゲルトの愛情に包まれ幸せなはずだったが、ゲルトの失職に端を発して、二人の仲は急速に冷えていく。
 しかし、ゲルトも恋人一家に起こった悲劇に、苦しみ迷う姿がある。ゲルトに限らずクサンテンのほとんどの人々は、善良であることが読み進めていくうちに良くわかる。人々もまたこの問題で逆の立場から悩み苦しんでいたのである。
 ジギは、学校でも遊びの中でも「人殺しの子」と、事ある毎に突き刺すような罵声を浴びせられるのである。そして、ついには学校がジギを「学校では預かれない」と通知をよこしてくる始末となる。
 何と悲しい残念なことだろうか。教育現場が体制に流されて本筋を見失うとは…。読者はここでもやり切れない怒りを感じるはずである。

 また、遠くの町から極右派と思われる若者たちが、ワルトホフの家を探しに町にやってくるのであるが、その敵意に満ちた行動と言動は背筋がさむくなってしまう。「おれ達は、場合によってはその家に火をつけるかもしれないんだ」と、笑いながら平気で言ってのける狂気に、心正しき市民はどのように対処すればいいのか。そして、善良であったはずであろうこの若者たちを、ここまで狂わせたものは何なのか。
 これはこの時代だから特別な事というのではなく、この以前も、また現在に至っても、人間社会に懲りることなく繰り返されている忌々しき問題点として、私たちが作者の意を汲まなければならない点だと思う。

 しかし、この小説はこれだけがテーマではなく、ジギの友達であるキリスト教信徒の息子カールとの友情の物語でもある。平和だった町に突如巻き起こった殺人事件と、その背景にある人種差別の理不尽さの中で、子どもたちの心も揺れ動くのである。そうであるにもかかわらず、真理を見通す目と正義を見つめ考え抜く純粋さは、大人に勝るものがあるということをこの物語は一貫して述べている。
 ジギは、ユダヤ教を信仰し、カールはキリスト教信者である。二人が時折信仰の違いにぶつかる場面では、互いに尊重し合い、認め合う姿がほほえましい。みながこの子ども達のように憎み合うことなく、大人になっていければ、どんなにいいかしらと思わず読者は感じてしまうだろう。

 さらに、この子どもたちを取り巻く大人達にも、私は心を動かされた。渦中の人ワルトホフ夫人もその一人である。彼女は自分もさる事ながら、夫のベルンハルトがいわれのない迫害を一身に受け、打ちのめされて帰ってきても、取り乱すことなくやさしく夫を迎えた。
 また、夫が逮捕されても、突然連行されたのだから突然帰ってくるかもしれないと、毎晩、夫の床に砂を詰めた焼きつぼを天火で温めて、それを床に入れて暖かくしていた。
 その様子を見ていたジギとルートは、どれだけ、心を癒され、温められていただろうかと、胸が熱くなってしまう場面である。
 もう一人この物語で重要な役割にある大人は、カールの父親ウルピウスの存在である。彼は、事件の発端より終始公正な立場で物を言い、ワルトホフ一家に対して、友人として彼らに接した。彼らに背を向けることなく、体制に流されることなく、自分に正直に振舞った。
 ワルトホフの家が焼き討ちにあったとき、あわてふためく彼らに手を貸し、消火にあたったのは、このウルピウスとカール親子だけだったのである。他の町の人々は、暴漢者の報復を恐れて手を貸せずに、事の展開に驚愕しているだけであった。
 この彼の態度の基盤となるものが、大学時代からの親友フリントから受けた友情の熱さと、それに感動した彼の純粋な心にある。このような宝とも言うべき体験をするものは、そう多くはないのが現実である。多くの人間が大人になるまでに、またなってからでも裏切りにあい、錯覚を信じたりして、人間関係を希薄にしてしまいがちなものである。そんな中でウルピウスは、信用するに足りる人格者として描かれている。こういう人物の存在に人間の素晴らしさを感じ、緊張の中にほっと胸をなでおろした。
 また、ワルトホフも当事者でありながら、不本意な不幸に見舞われても、自分を見失うことなく常に冷静に振舞う姿は、いっそう読者に悲しみと怒りを募らせる。
 このように賢明な大人達に囲まれて、ジギとカールは互いの友情を確かめ、温めあっていくのである。それはたとえ二人が離ればなれになったとしても、変わることのない友情である。
 
 この物語は、カールの目を通してみた近隣の家で起きた事件である。彼は、このショッキングな事件での大人達の行動や、その考えに毒された友達のようすを見て、自分のあり方を見出していくのである。
 ジギをかばい、学校側の処置に抗議したクデンホーベン先生や、ドットマイヤー先生のような先生になりたいと…。
 ここに作者の体験を、オーバーラップさせているのだろうかと想われる。また、自身が、教育現場に身を置いている立場だからこそ語れる現実のやるせない限界なども、前述したように描かれている点が、私としては、心に残るものとなっている。

 この本を読み始めたとき、直球派の社会問題をテーマとた作品とその展開に、はらしながら読み切れるかなと心配したが、読み進むうちに、我々人間が目をそらしてはならない、今もなお、繰返される過ち・根底に潜む問題点を感じ、昨今取り沙汰されている「いじめ問題」に通じるものがあると感じた。
 多感な少年時代にこの作品に出会うことは、歴史的人種的問題として捉えるだけでなく、今日的な問題も見出せるという点で、それぞれに意味のあることになるだろうと思った。そう言う意味では、児童向け図書ではあるものの、大人が読んでも例外ではなく、考えさせられ、学べる作品であったと思う。
 かく言う私が、読後も心の中に色々なものが去来し、未だにこの本と出会う前ののんきな主婦で、穏やかな安穏たる心に戻れないでいる。
 忘れていたもの、眠っていたもの?を呼び覚ましてくれたような気持ちになっているのである。(小田早苗)
「たんぽぽ」16号1999/05/01