トニーが消えた日

マリアン・D.バウアー

久米穣訳 佑学社 1987/1989

           
         
         
         
         
         
         
         
    
 自分のせいで友だちが死んでしまったら--これほど厳しく少年の苦しみを描いた作品を他に知らない。読み終わって、少年の背負う重荷の大きさにこちらまで押しつぶされそうな思いがした。本書は一九八七年度のニューベリー賞の優秀作品で、著者のマリアン・D.バウアーの名前は、『家出--12歳の夏』でご記憶の方も多いだろう。
 場所はアメリカのイリノイ州。ジョエルとトニーは幼ななじみで十二歳。夏休みのある日、トニーはジョエルを州立公園の危険ながけ登りにさそう。断るのを目的で、ジョエルは父に公園に行っていいか聞く。ジョエルの意図に反して、父は公園以外の所へは行かないことを条件に公園行きを許す。公園へ行く途中、トニーは気がかわり游泳禁止のバーミリオン川で泳ごうといいだす。父との約束もありジョエルはしぶるが、おたがいの意地のはりあいから、ジョエルは思わず川のまん中の砂州まで競争しようといってしまう。砂州についたジョエルがふりかえると、トニーの姿は消えていた。
 驚いたジョエルは、気違いのようになってトニーをさがす。自分一人の力ではどうにもならないと知ると、車で通りかかった少年にも捜索をたのむ。しかし、赤土色ににごった川でトニーはみつからない。人がおぼれる時間はせいぜい五分だ、警察に届けよう、と少年にいわれて、ジョエルは改めてトニーの死を実感する。それとともに、これから直面しなければならないことを考えて心底こわくなる。
 ここからのジョエルの気持ちや行動は、良心の痛みや人間の弱さずるさを、読む者が息苦しくなるほどリアルに写しだしていく。ジョエルは、警察には自分で届けるからと少年を帰してしまう。ジョエルはやみくもに自転車をとばしながら、トレーラーの車輪の下にとびこんでしまいたい誘惑にもかられる。自分かわいさからジョエルは完璧な釈明を考えて警察には行かずに家へ帰る。トニーの行方を聞かれるたびに、ジョエルはうそを重ねていく。苦しさに耐えきれずジョエルが真実を告白したのは、その晩トニーの服をもって警官がきたときだった。
 すべてを告白してもトニーの死は取り返しがつかず、ジョエルに救いはない。父との約束を破ったこと、ノーといえなかったこと、泳ぎのへたなトニーをそそのかしてしまったことの重荷をジョエルは一生負わなければならない。とても子ども一人で背負える重荷ではない。この作品の救いはジョエルの父だ。父は、ジョエルが一人ぼっちで苦しんでいるときに助けてやれなくてすまなかった、といい、重荷を一緒に背負っていこうという。そして、自分の胸でジョエルを思いきり泣かせてやり、ジョエルが眠るまでそばにいると約束する。この父親がいなければこの作品は児童文学ではなくなってしまっただろう。
 ジョエルの心の動きをバウアーは実によくとらえているが、なかでも良心の苦しみの象徴として川のにおいは強烈だ。死んだ魚のようなバーミリオン川のにおいは、うそをつくたびにジョエルの体から強くたちのぼりいくらシャワーを浴びても消えない。すすり泣きながらジョエルは父にたのむ「どうしても消えないんだ。消して、このにおいを。」
 川のにおいを感じているのはジョエルだけなのだ。ジョエルの苦しさが何倍にも伝わってくる。
 バウアーが厳しい目を向けるのはジョエルにばかりではない。死んだトニーに対してもだ。ジョエルに「川で泳ぐ前にお母さんがどんなに心配しているか思い出すべきだった」といわせているし、ジョエルの父に「川で命をおとすのは、あまりにももったいないことだ」といわせている。トニーへの批判は、自分の行動には自分で責任を負わねばならない、そしてそれは死んだ者とて例外ではない、という、個人主義が徹底したアメリカならではのものだと思う。 本書をアメリカ的といったが、生きるということを考えるうえで、ぜひ日本の少年たちにも読んでもらいたい作品だ。(森恵子)
図書新聞 1990年1月13日