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第二次大戦時アメリカにいた日系家族に何が起ったかを描いた物語である。淡々と、少女の目に見えたもの、感じたことが書かれているという印象と同時に、事実のもつ重さが伝わってこないという、いらだちを覚える。戦時下、米国、日系人、強制収容所ということへの興味。そのことを十一、二才の少女がどう受けとめ、成長したか。残念ながら期待ははずれた。全体への不満は一応おいて、次に部分的不満を二つほど書くことにする。 第一は、最終章の「世界よ、こんにちわ!」への疑問。トパーズ収容所から次の居住地へ移る道中でユキが味わう解放感はわかるが、その一時の喜びがあたかも平和が戻り日系人たちに解放の日がやってきたかのような錯覚を起こさせるタイトルと最後の何行かに、読者としてとまどう。第二に、これも最終章で気になったところ。ユキの父のような白人の事務所で働いている人たちに憎しみを抱く反白人派の人たちが不穏な行動をとったことに対して、「人々の数が多くなると必ず少数の悪い人間が出てくるものだが、トパーズもその例にもれなかったのである。」と作者は書く。これは作者の体験の中で彼らが「悪い人間」であったということか。 私には始めにあげた全体を通しての不満と、部分的不満が同じ原因によると思える。それは十一才の少女の視点で書かれるにせよ、作者の視点がその後に、また作品の構築の中に当然あるべきなのにここには一貫して感じとれないことである。作品のラストは、時には作品の生命を左右するほど重要なものである。歴史的事実の始めと終りが作品の始めと終りに合致する必要はないので、どの時点が作品のラストになってもかまわない。トパーズを出ることが、少女の内的世界を大きく変化、飛躍させるものであったとしたら、この後の少女の未来を予見させる、そんな明るさをもって描かれていたのなら納得もできる最終章なのだが、そんな作者の少女に対する視点は働いておらず、途中でぶっちぎれたようなとまどいと、誤解を感じてしまうのである。 「悪い人間」については、作者の眼の入るべき所を少女の眼だけに委せられているのは他にもあり、それはせめて十一才の少女にとって社会の底流にうずまくさまざまな人々の思いまでは及ばないのだという作者のコメントが感じられるほどであってほしかった。一世と二世の市民感覚の差が祖国に対して、徴兵に対して出ているが、それはキャラクターとの密接な関連の中で自然に出てきて当然のものである。 作者はプロローグで、これは「ある日系人家族の物語である」、そして「彼らの上になにが起ったかの記録である」、「事件はすべて事実にもとづく」、「私の家族に怒ったこと」だと言っている。多分作者は虚構を交えずありのままを書こうとしたのだと、このプロローグと作品を通して推測するのだが、自らの十一才の体験に忠実に沿うことが事実を書くことになるのか、「記録すること」と「物語ること」との間のどこに位置を定めて書くのか、それはこの種の作品に共通する課題であろう。 ついこの間出た同じ作者の「荒野に追われた人々」をあわせて読むことで理解を得られる所もあったと思うがその余裕もなかったことをお断りしておく。 (松村弘子)
児童文学評論22号 1986/03/31
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