翼ひろげて

ロビン・クライン

坂崎麻子訳 偕成社 1996

           
         
         
         
         
         
         
         
     
 両親の不仲が原因で母観の知人宅に預けられている十一歳の少年シーモアと、麻薬中毒の二十歳の女性アンジェラとの心の交流を中心に、それぞれの背後にある家族の愛憎劇までも描いた作品。シーモアの父親は、意志が弱く仕事はいつも長続きせず、トレーラー暮らし。そんな夫に愛想をつかした母親は、シーモアを知人に預けて朝から晩まで働く。知人のおばさんの家では、父親がシーモアを探しにくるといけないからという理由で、外出は禁じられる。
 ところがある日シーモアは、おばさんの留守に裏木戸を乗り越えて通りへ出るが、すぐに近所の悪ガキどものカモにされ追いかけられる。内気でいじめられっ子のシーモアは夢中で逃げるが、どれがおばさんの家だかわからない。追手が迫り、せっぱ詰まって飛び込んだ裏木戸のある家がアンジェラの家。
 アンジェラは、シーモアが今までに会ったなかで一番美しい人で、その名のとおりエンジェルを連想させるほど純粋で純潔な感じがするが、指には黒いマニキュアがぬられ、肩には入れ墨がある。洋服には一つ一つに名前をつけ、ステキだがいやに派手な服装をしており、部屋は散らかり放題に散らかっている。またおしゃべり好きで、将来の夢を無邪気に語ったりするが、突然眠り込んでしまうこともある。
 物語は二人の交流を中心に展開するが、対等な友達関係というよりも、わがままで気まぐれなアンジェラに、年若き保護者的なシーモアがふりまわされる、という感じで話が進む。しかしもちろん、この不可解だが純粋な女性は、シーモアが初めて「いっしょでうれしい」と感じ、初めてスキンシップを感じた人である、この交流を通してシーモアは今まで自分の中に封じ込めていた、相手に何かを期待する気持ちや、またそれが裏切られた時の絶望感など極めて人間的な感情を呼び覚まされる。また麻薬中毒症で運ばれた病院からすぐにでも逃げ出そうとしているアンジェラを本気で怒り、大喧嘩になりながらも、療養施設できちんと治療するように説得するシーモアに、「いままでいっぺんだって、なにか障害があったらそれをのりこえよう、よじのぼってみよう、としたことはなかった」気弱な少年とは別人のように大きく成長した姿を見ることができる。
 アンジェラが麻薬中毒であることは、その不可解な言動に伏線はあるものの、終盤になるまで語られない。しかしそれが明らかにされると同時に語られる家族の苦悩には身につまされるものがある。問題は麻薬中毒ではないにしても、どこの家庭でも一度や二度は、他人に知られたくないが、自分たちだけの力ではどうにもならず、時には絶望感にうちひしがれそうな問題を抱えたことがあるのではあるまいか。周囲が父親を追いつめてしまったがために、問題がさらに悪化してしまったシーモアの家庭にしてもそうだ。どんなに幸せな家庭でも、歯車が一つ狂うと、その歯車をもとに戻すのに、本人及び周囲の人間のどれだけ多くの労力と時間と忍耐と、そして愛情がいるものか。しかもその歯車の狂いは、どんな家庭にも誰にでも、いとも簡単に起こりうることなのだ。
 しかし病気を治すのは医者や家族ではない。あくまでも本人の治そうとする強い意志があって初めて治るのだ。そういう意味で、物語の最後のアンジェラやシーモアの父親の様子には希望が持てる。もう安心だといえるほどの確固とした強い希望ではないけれども。
 先日も中学生が授業の合間に覚醒剤を打っていたことが報道された。昨今の少年少女の無軌道ぶりを思う時、これは一つの家庭や地域だけの問題ではなく、社会全体の問題として、大人たちが少年少女に真剣に向き合って取り組んでいかなくてはならないと切に思う。そういう意味でもこの作品は非常に多この問題を問いかけていると思う。これが大人の読み方であることは百も承知である。子どもはこの本をどう読むのだろうか。なにしろ本書は|九九○年オーストラリア児童文学賞受賞作品なのだから。(南部英子
図書新聞1996/04/13