月の精

シャスティ・シェーン

中村圭子=訳 ぶんけい 1998

           
         
         
         
         
         
         
         
     
 本書を紹介するのは、ある意味で容易い。本書のカバー裏では、次のように紹介されている。「成績がよく、きれいで、スタイル抜群のシンディ。しかし、なぜか心にはポッカリ穴があいている。幸せそうに見えて、じつはバラバラな家族。両親のいいあい。自分にたよる母親。シンディはいつのまにか、やせることで悲しみを追いだそうとする。<拒食>という、とてもつらい方法で。」
 思春期の少女、自我同一性、家族関係(母娘関係)などといったお馴染みの主題が拒食という摂食障害に集約されているという訳だ。あるいは、同じことだが、拒食は先にあげた主題においてこそ読まれるべきである…。上記の要約では省略されているが、シンディの拒食は異性関係の線上で語られている。ヘルゲという異性を契機に意識化される性的身体が母親のそれに結びつけられるとき、それはシンディにダブル・バインドをもたらすことになる。なぜなら、共依存関係にあるシンディにとって母親の否定は自己の否定に他ならないからだ(母親を否定できないからこそ共依存なのである)。自己(性的身体≒母親)を消去することで自己(自我同一性≒本当の私)を保存せよという至上命令。しかし、母親を否定することもできなければ、日々成熟していく身体。このままでは「本当の私」がなくなってしまう…。したがって、拒食はダブル・バインドの結節点たる母娘関係の切断においてこそ解消されることになる。母娘関係の切断は、シンディに「母と娘の物語」とは別の仕方での自己確立の可能性を与える…。
 以上は、拒食についての教科書的記述であると同時に『月の精』についての(かなり偏向した)要約である。残念ながら書評子は摂食障害研究の現状には無知なので、正確には、これらの見解は多分に誤謬を含んだ拒食についての物語≒イデオロギーである。だとしたら、本書は読まれる前にして既に読み終えられてしまっているのだろうか(イデオロギーとはそのような転倒された再現=再認行為に他ならない)。このように批判することは容易いが、本書にはそのような物語には収斂し尽くされなかったかも知れない箇所がいくつかある(最終的には回収されてしまうことになるが)。それらを次に見ていくことにしよう(物語ると同時にそれを脱構築しなければならないという児童書のダブル・バインド?)。
 たしかに本書には拒食が母娘関係に集約される傾向にあるが、母親のシンディ依存が夫婦関係の問題であることは随所に示されているし、シンディを性的身体に呪縛したのは父親の何気ない言動であったことも語られている(シンディの身体を押し退けて「きれいになったね」という父親)。あるいは、低脂肪製品の広告ポスター(セミヌードのがりがりにやせているきれいな女性モデル)が合成であったなどの挿話は、拒食が母娘関係に収斂し尽くされることのない社会的問題であることを示唆していよう。そのような社会的問題の一局面は父親の異常なまでの運動に対する執着に現れている。シンディはプロポーションを(父親を契機とした)運動を通して維持している。少なくとも、シンディの場合、拒食は「(運動による)健康な身体」と何ら矛盾するところはない。なぜならば、「健康な身体であること」は社会において奨励されている正の価値観なのだから。だれもシンディを説得することができないのは、シンディの行為が少なくともその手段においては社会的に正当化されていたからではなかったか。しかし、にもかかわらず、シンディは自らの拒食を母娘関係として理解しようとした(「あ なた〔ヘルゲ〕のせいじゃない。(略)母親の…ママとわたし、いろいろあるのよ」)。ここに、拒食を母娘関係においてのみ解釈しようとする際の陥穽が反転されて示されていよう。すなわち、母娘関係において了解するような解釈行為は、往々にしてその社会的局面を隠蔽するのだ、と。もちろん、先の科白はあくまでシンディのそれであって、『月の精』の作者のそれとは必ずしも一致しない。したがって、次のように敷衍させることには慎重でなければならないが、少なくとも本書が「拒食についての物語」から逸脱することに失敗している点は強調されてよいように思う。(目黒強)
「書き下ろし」1998.5.30.