|
今日、大人と子どもの境界がますます不明確になってきている。しかも両者の間には、まるで強固なバリアが張り巡らされているようで、大人の側から子どもの世界を覗くのはなかなか難しい。見えるのは、様々に浮上してくる子どもをめぐる問題群だけだ。それらはまるで、大人社会を挑発するかのようでもあり、強固なバリアを突き抜けようとする彼ら自身の悲痛な叫びのようでもある。 頻発する自殺予告騒動。テレクラ少女の低年齢化。女子高生の援助交際の増加。相変わらず後を断たないいじめ事件。子どもの世界が大きく揺らいでいる。様々に変容する現代社会の中で、子どもたちは今、何をどう考えているのだろうか。 谷川俊太郎、河合隼雄、本田和子、斎藤次郎、見田宗介、佐伯胖、浜田寿美夫を編者として、シリーズ『今ここに生きる子ども』全二十冊(岩波書店)の刊行が始まった。この本は、脇浜義明『ボクシングに賭けるーアカンタレと夜学教師の日々』と同時に発売されたシリーズ最初の一冊だが、子どもたちの現在に向かうシリーズ全体の意気込みとスタンスを象徴しているかのように、実にエキサイティングで新鮮に読めた。 精神科医の著者は、自身がテレビゲームの不思議な力に支えられ励まされた体験を通して、「心とゲームのポジティブな関係」を探ろうとする。得てして予断的な観点からテレビゲームにアプローチして、その弊害を導き出そうとする論稿が多い中にあって、こういった問題意識からテレビゲームに立ち向かう視点が、まず何よりも新鮮で好ましい。 一九八三年七月に任天堂から発売された「ファミリーコンピュータ」は、ファミコンと通称されて、瞬く間に子どもたちの世界を席巻していった。一時的なブームに終わるのではないかと思われたテレビゲームだが、その後、子どもたちばかりか若者や大人にまで広がり、機種も様々に拡大して今日では新しい文化として確実に定着しつつある。 それに対して、様々な批判が登場する。筆者も以前、ブックレット『ファミコン時代の子どもたち』(アドバンテージサーバー刊)で、「ファミコン悪者説」への反論を書いたことがあるが、子ども社会での諸悪の根源を、新しいメディアに求めたがる俗説は、昔も今も根強く蔓延しているのだ。 著者は「ゲームによって現実と虚構の区別がつかなくなる」というフレーズが、何ら検証されることもなく市民権を得て、まるで呪文のように一人歩きすることに疑問を投げ掛ける。精神科医による「疑似環境や情報化社会と精神」についての考察などは、テレビゲームが登場するずっと前から始まっているのだ。そして、テレビゲームと聞くだけで、ヒステリックに「よくない遊び」と反応する状況は、“魔女狩り”の時代と大差ないかもしれないとも言い、「ゲーム批判の系譜」をつぶさにたどりながら、そこにもっと科学的な研究をと呼び掛けるとともに、多くの臨床体験を通して、ゲームによる心の癒しの可能性を探っていく。ここまでこじれてしまった心を、健康な子どもと同じように熱中させるテレビゲームとは、いったい何なのだろうかと。 ゲームをすることによって、心は大まかに二つのプロセスを踏むと著者は言う。一つは、ある世界に暖かく迎えられ、「自分が受け入れられている」という体験。もう一つは、ゲームそのものに没頭することにより、「新しい世界への強い参加の感覚」を味わう。プレイヤーが、このように現実の世界では体験できないほどの強さで、「受容と参加」を直接的に実感できるところに、著者はテレビゲームの持つ心の癒しの機能を見る。そしてこの延長上にテレビゲーム療法を想定するのだ。 自身のゲーム体験を精神科医としての臨床体験に重ね、現代社会が包摂する困難性を辛うじてゲームによって癒している現実を透視して、それをポジティブに生かそうとする試みは、今日の子ども世界の困難性に寄り添って彼らの心に光を与えることのようにも思われる。著者がゲームの中に見た「受容と参加」こそが、現実の子どもたちが心の底から欲しながらも適えられにくいものであり、そこにこそ今日の子どもにかかわる多くの問題の根源が横たわっているのではないか。大方のテレビゲーム批判は、原因と結果を取り違えた論議に過ぎないことを、この本は見事に明らかにして見せる。カバー裏の谷川俊太郎の詩もまた、子どもたちがテレビゲームに向かう気分と感覚を、しなやかにとらえていて秀逸である。このシリーズの続刊が楽しみだ。(野上暁)
『週刊読書人』1996年11月22日号
|
|