ながいながいペンギンの話(いぬいとみこ 宝文館 1957)


 「『ながいながいペンギンの話』って知っているか、見せたろか。」と有二クン(六歳)が話しかけてきた。大阪市内の団地の一室で十人の子どもたち(四歳〜七歳)と本を読んだり、話をつくったりしているメンバーの一人である。他所に引っ越していった子のあとに入ってきた新入りのわりには全く物おじをせず、昔から参加しているようで違和感がない。次の週、「はい、これ。」と差し出したのは、幼稚園の卒園記念制作らしく、画用紙にガリ版でストーリーが入っており、貼り合わせて、次の二ページには、子どもが絵をかき、次にストーリーと続く部厚い絵本であった。ルルとキキが生まれるところは、卵がわれるしかけがしてあって左右に広げると中にペンギンの赤ん坊がかいてあり、にっこりさせる。人に見せたくなる筈だとその労作をみんなで見る。オーロラの美しい色彩、絵のユーモラスな動き、しかけのおもしろさと魅力たっぷりの絵本であった。
『ながいながいペンギンの話』が完成したのが一九五六年、その翌年に出版されているからもう二十年以上の歴史をもっていることになる。
「幼い子どもは、注意力のつづかない―つまり長い話になど興味をもちつづけることのできない―幼稚な存在とみられて、原稿用紙二−三枚のたわいもない幼年童話の横行がゆるされ、いっぽう「文学的」「芸術的」という名のもとに大人の感傷に裏打ちされた悲哀のこい「幼年童話」が大人たちから高く評価されていたあの時期に、そうしたものを否定して、行動的な主人公が活動する「たのしくて長い幼年童話」を書くことができるか否かということは、わたしには大きな問題でした。(一九六三年理論社版あとがきより)
と作者自身が書いておられるように、続く幼年童話への誤解の根の古く深い中で同人誌への掲載という自由はあったとしても、これだけのスケールのものが、二十年前に成立していることには、あらためて新鮮な驚きを覚える。有二クンの園の先生のような方やその先生の熱意にこたえて作品を自分のものにとりこんでいく子どもたち多数が脈々と存在してきた。
「こっちがルルで、これがキキ、おもしろい話やで。みんな、読んだろか。」という有二クンの誘いで、私も聞き手にまわる。二年前グループをはじめたときは、こちらに主導権があって、あれこれ準備していったものであるが、最近では、自分のよんでほしい絵本を持ってくる子、自分の話をきかせたい子が多くなってなかなか思うようにいかない。中でも話をはじめるととまらない子(五歳)がいて他の子が不満をもらすと、その子も話の中に登場させて、きかせてしまう猛烈なストーリー・テラーではある。安易な話をすると、「なーんや。」と抗議するし、「あほくさ!」と批評がきびしい。
 このグループとつきあうようになってから、つくづく幼年童話の保守性に気がつくようになった。冒険をしても守られた中での冒険であったり、思いつきであることが多く、根底にゆさぶりをかけるようなものは本当に数少ない。
 二十年たった目で、『ながいながいペンギンの話』のもっている成長のエネルギーに対するあまりにも楽天的であることの甘さをつくことは、やさしい。しかし、この作品を越えたものが質量ともにあったのかと考えると、ご都合主義で、時流にのろうとするテーマ主義的なものや、小さくかわいい感じに寄りかかっているもの、ワンパクの域をこえない冒険、わが家礼讃型のものが目についてしまってなかなかあげることができない。(幼年童話のこの二十年の歩みをふりかえってみるのには、もっと、精致なアプローチが必要であろうかと思うが。)
 「生態をしらべてその基礎の上にかく」として「人間と動物とは口をきかせ
 ずにしかも心は通じ合わせる」という約束のもとに動物ファンタジーを書く、
 ということは、空想のひろさをある程度限定されてしまうので、作者にとっ
 ては、かなりむずかしい。(「なぜ動物を主人公にした作品をかくか」(『日本
 児童文学』六九年二月号五四頁)
という手法はしかし、この作品のリアリティーを支えており、すぐれたものとして後に、同じような手法であるリチャード・アダムスの『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』などで現代のファンタジーのいきついた一つのあり方として実証されてきている。彼女の主張する「毛皮性」(自然性直接性)という観念(同右エッセイ参照)は、恐らく動物と幼児の共感関係―作品の中では、もりうちセイさんの胸で安心してねむるルルの姿―で説明するのにふさわしいかと思う。ことばで通じあうのではなく、異種間―ペンギン、クジラ、人間―においても愛情がかよい合うときはかよい合うという信念、そうありたいという願いは、ルルやキキの冒険や成長のシーンの中に、非常に自然に入れられているので、そのまま受容されてしまう。向日性や教育性が気持よく感じられてまことにたくみである。諷刺をよみとれる読者には同じペンギンでも独裁者皇帝ペンギンの否定的な描き方とあわせて作者の思想を考えさせる。幼児にも自分の思想を語りたいという当り前のことが、今日でもなお疑問視されていることを思いあわせる時、このたくみさは、得がたいものに思われる。
 こうした思想・テーマでひっかかるものがあるとすれば、それは毛皮性よりは、個と集団の描き方にあるようである。集団を離れたトトが人間の世界に積極的に入っていくかなしみはすなおに伝わる。しかし、ルルが、先生についてやる<水もぐり>をさぼっている心理を、皇帝ペンギンの王のいばったかっこうと同じというとらえ方でのみ否定され、集団に迷惑をかけるものというもっていきかたは、どうだろうか。集団を離れたい個の心理として、行動的な裏面としての孤独という幼児の大切な気持にもふれる可能性のあるシーンだったのではないだろうか。幼児は向日的であるという呪縛の根は深いけれども、行動的であればあるだけ、その陰の部分もともなうということを描くことが幼年文学を深化させることであると思うので、あえて附加しておきたい。
 また、生命の危機にぶつかる場面を丹念にひろっていくと、例えば「きんいろの目が、ぎらぎらと、おそろしく光っています。ルルは、こわいとおもいました。」というような文章に出会う。幼児の心をゆさぶり想像力をひろげ、心の体験としてうけとめるにはあまりに物足りない。恐い話、生命をあやうくする話をこれでもかこれでもかと限りなくききたがるグループの子どもたちの顔を思いうかべるとき、また、死と再生の話ばかりをつくっている子どもにむかうとき、「こわいとおもいました。」では、迫力がない。「楽しい話」というとらえ方が、こうしたシーンを書きこむことをためらわせたのだろうか。
 出版されて二十年たっても、なお、色あせないだけでなく実際の冒険や社会には変質があっても、動物ファンタジーとして今も輝いている『ながいながいペンギンの話』を有二クンによんでもらいながらいい気分で一夕を送ったついでに、つい、不満をもらしてしまうのは、大人の読者のやりきれない点ではある。(三宅興子)
「日本児童文学」1978/09(特集 いぬいとみこの世界)第24巻 第9号

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