なんじゃもんじゃ博士
ハラハラ編・ドキドキ編

長新太著 福音館書店
2003年10月25日

           
         
         
         
         
         
         
    
長新太作品について何かいうのは本当に難しい。それは、マンガだからだとか絵本だからだとかナンセンスだからだとか、そういう問題ではきっとなくて、あまりにも超然と「長新太世界」が屹立しているからじゃないか、と思う。
 マンガどうわ『なんじゃもんじゃ博士』は、「母の友」誌上に一九八五年四月号から連載されている人気シリーズだ。二〇〇三年十月、二百話分が『ハラハラ編』『ドキドキ編』となって単行本化され、ハラハラドキドキいちどにまとめてたくさん読めることになった。
見開き一頁、四×四=十六コマで一話完結のスタイルは、『なんじゃもんじゃ博士』全編に共通する。そして本作品は、一コマ目はタイトル、二コマ目は「博士とゾウアザラシがやってきました」、最終コマには地平線に小さく消える二人の姿と「つづく」の文字、そして欄外に一言、という安定した構造を持つ。初期作品には多少の変形が見られるが、第七五話以降は殆ど例外なくこの形式を踏襲する。この枠は「長新太世界」の舞台だ。きっちりとした形式は、短歌や俳句と同じに、無限の自由を内包しうる。世界を構築する想像力の特異性が際立つ。舞台に一本の線が引かれる。地平線であり水平線であり、はじまりの合図だ。博士とゾウアザラシは長新太世界の地平を行く。そこは、作家言うところの「なんにでも命がある」、アニミズム的センスが縦横無尽に表現される冒険の世界だ。
「マンガどうわ」を言語で語りなおすことの無謀さと無意味さを知りながら、それでも一編紹介しよう。
博士とゾウアザラシが木の下で休んでいると、雛鳥が一羽落ちてくる。博士はその鳥を巣に返そうと木に登るが、すぐに落下、「ワーッ」と言って逃げ出す。木に見えたのは、胴体部分をこんもりとした枝葉に、足を幹に見立てた、ダチョウのような形の大きな鳥だった。博士とゾウアザラシは、その大きな鳥(=親鳥)にあっけなく捕まり、長い首で親鳥の背の上に乗せられる。親鳥の上で、二人は落ちてきた雛鳥と遊び、鳥の親子と友だちになる。親鳥の背からおりた博士とゾウアザラシは、鳥の親子と別れ、旅を続けるのであった。最終コマでは、小さな木のように見える親鳥の姿と、「ピー」と鳴く雛鳥の声を遠景に、手を振りながら地平線へ消えていく博士とゾウアザラシが描かれ、「つづく」と結ばれる。欄外には「博士たちのあったトリは、ダチョウよりも、ずっと大きい、「なんじゃもんじゃドリ」です。」とある。
これは一九九九年十月号掲載の第一六三話だが、同誌に「穴のあくほど「見る」こと」という猪熊葉子氏のエッセイがある。電車で「六、七カ月ほどの坊や」に「穴のあくほど」じいーっと見られた話から、宮沢賢治やワーズワースの詩性について「大人になっても、「穴のあくほど」ものを見ていたかつての子どもが、自分のなかに生き続けていたからに違いない」という。
長新太作品も、この、作家自身の「穴のあくほど」世界を見つめ続ける視線から生まれたのではないだろうか。黒い夜空に「ニュー」っと出る月は、下半分が四角くなったり太陽になったりゾウアザラシになったり(第四三話)、また、雲はアイスクリームになったりスイカになったり(第一四九話)する。そして、ずっと座っていて足の痺れた山(第一三四話)やゾウアザラシにできたゾウアザラシによく似た形のコブ(第一七一話)など、事象はアニミズム的センスで擬人化され、読者の顔と頭をふにゃっとさせるナンセンスとなる。
ファンタジー・ブームと言われる昨今、書店には「ファンタジック」なファンタジーが溢れる。しかし、世界を「穴のあくほど」じいーっと見つめる長新太の「ファンタスティック」なナンセンスこそ、現代と呼ばれ続けて長いこの時代に、ぽっかりと開いた穴ではないだろうか。「対談 長新太の作品を論ず」(「飛ぶ教室」34号)で、鶴見俊輔はバフチンを引いて、長新太漫画の笑いは近代以前に通じるものと指摘したが、長新太世界という穴は、さらに過去や未来といった時間すら無化する、ブラックホールなのだと思う。我々読者は、博士とゾウアザラシを水先案内人に、どぼんとブラックホールに飛び込むまでだ。
初代『なんじゃもんじゃ博士』は一九七九年福音館書店より発行されているが、こちらは二〇〇三年現在絶版になっている。ついでに『ハラハラ編』と『ドキドキ編』のちょうど間にある第百話は「100回記念 総天然色版」で単行本には収録されていない。最寄りの図書館で「母の友」一九九三年七月号を請求すると、美しくもどこかもの哀しい、総天然色の博士とゾウアザラシに出会える。(諸星典子 図書新聞 2661号/2004年1月17日掲載)