夏の庭The Friends

湯本香樹実・作
福武書店のちにベネッセコーポレーション1992

           
         
         
         
         
         
         
         
    
※浮遊する情報としての「死」
 人はだれもが、誕生とともに死に向かっての時間を刻んでいる。けれども、若さや幼さが、それを実感するのは難しい。生きようとする過剰なエネルギーが、死を無意識的に覆い隠しているのだ。しかし、死は常に生と背中合わせにある。そして、情報としての死が氾濫している現在では、子どもたちにとっても死は決して無縁ではない。むしろ死の観念だけが、実体を遊離して異様に浮上してきているともいえようか。
 この作品は、そんな時代の子どもたちの、死に対する危うい浮遊感覚を軽妙にとらえ、それをきっかけに、少年たちのひと夏の奇妙な体験を生き生きと描いてみせる。
 語り手は、小学六年生の"ぼく"。それに、同じクラスのメガネの河辺と、デブの山下が加わって、このワルガキ三人組を中心に物語が展開する。
 塾の帰りに、ぼくと河辺は、祖母のお葬式で田舎に行ってきた山下に、その様子をしつこくたずねる。二人はお葬式なんてこれまで体験したことがないから、お葬式のことはもちろん、人が死ぬとどうなるのか興味津々なのだ。
「人は死ぬと焼かれるんだ。火葬場、というところに運ばれて、お棺が、大きなかまどのなかにするするの入ってがちゃん!と扉が閉まる。そうして一時間後には」
 急に声を落とした山下の話に、ぼくは身を乗りだす。
「骨になるんだ。ぜんぶ焼かれて、骨だけが残る。白くて、ぼろぼろ。すっごくちょっぴりしかなかったよ」
 山下は、おばあちゃんの死顔を見たと言う。耳と鼻の穴に綿みたいなものが詰まっていた。そのおばあちゃんの死体が、山下の夢の中に出てきて、彼とプロレスをするのだそうだ。山下は、お葬式なんかに行かなければよかったと悔やむ。
 それからしばらくして、彼ら三人組は、近所に住む一人暮らしのおじいさんを見張って、その死を見届けようということになる。オカルティックな関心なのか、死への好奇心なのか、単なる探偵ごっこの延長なのか。このあたりまでの展開は、情報としての死と現実の死とがないまぜになった、子どもたちの今日的な興味の在処と感性の揺らぎを、じつにリアルに浮上させていて、作者の現代的視点の確かさを感じさせる。

※「死」のリアルへ
 一人暮らしの老人の、死ぬところを観察しようという、この不埒で不謹慎な行いは、三島由紀夫の『午後の曳航』の少年たちの悪戯と重なってイメージできる。三島の少年たちは、死への妄想とその実感化の儀式として、猫を虐殺して解剖してしまうばかりか、母の結婚相手をも殺してしまうのだ。
 しかし『夏の庭』の少年たちは、死への好奇心から老人を見張りながら、全く反対の方向に向かう。三島の少年たちが、大人世界への憎悪を煮えたぎらせていたのとは違い、この作品の少年たちは、老人の日常をつぶさに観察していくうちに、そこから奇妙な友情を育んでいくことになるのだ。
 老人の家は、ほとんど手入れがされていない。壁板は剥がれ、割れた窓ガラスには新聞紙をガムテープで張り付けただけ。家のまわりには、わけのわからないガラクタやゴミ袋なんかが、ずらっと取り囲んでいる。もうすぐ夏だというのに、老人は一日中こたつに入って、テレビを見ているだけ。
 少年たちの監視は、根気良く続けられる。しかし老人は一向に死ぬ気配はない。そのうち老人は、少年たちに監視され続けていることに気づく。訪ねる人も周囲との交流もなく、ただテレビに向かっているだけの孤独な老人の日常に、微妙な変化が生じる。見られているということ、つまり他者からの執拗な視線によって、自らの存在感が意識され、精気が蘇ってくるのだ。
 子どもっぽい好奇心が、予想外の展開に至るこのプロセスは、じつにユーモラスで、巧みである。そしてそこに、人間関係の今日的な在り様を、さりげなく、しかも鮮やかに物語化して見せる、この作品の重要なポイントがあるのだ。
 老人の死を監視していたはずの少年たちは、全く意に反して、いつの間にか老人のシタタカな策略にはまり、庭の草取りをさせられ、洗濯物を干すのを手伝わされたりするはめになる。しかし、彼らにとっては、それらもまた新鮮な体験であった。そして老人と少年たちの奇妙な交流が始まる。
 老人は、戦時中に南の国のジャングルで、死に物狂いで敗走する途中、食料を得るため女子どもと年寄りだけしか残されていない村を襲い、彼らを殺したのだという。その贖罪感からか、老人は復員してからも自分の家に帰らず、奥さんにも会わず、世間的な幸せから逃げてきたのだ。その話を聞いた少年たちは、生き別れになったままの老人の奥さんを探そうとする。
 もはや彼らにとって、老人は他人とは思えない存在感を持ってきた。そうした矢先、少年たちが夏休みの終わりのサッカーの合宿から帰り、土産を持って老人の家を訪ねると、老人は少年たちと一緒に食べるつもりだったブドウを枕元に置いたまま、人知れず静かに息を引き取っていた。彼らは初めて人の死にリアルに向かい合い、その悲しみと底知れない虚しさを実感するのだ。
 心憎いばかりの結末である。そして少年たちは、このひと夏の貴重な体験をそれぞれの胸に刻みながら、小学校を卒業して、おのおの違った道を歩み始める。これは少年たちにとっての、一種のイニシエーションであるとともに、高齢化社会に於ける老人の生きがいをも照射する、老人と子どもの今日的関わりを示唆するものでもある。
 この作品は、新人の第一作として日本児童文学社協会と日本児童文芸家協会の新人賞をダブル受賞するとともに、読書感想文コンクールの課題図書にもなった。また相米慎二監督によって映画化されて話題になり、今日でも新潮文庫などでよく読まれている。これまでドイツ語、英語、韓国語に訳され、オランダ語、スペイン語版も翻訳中。全米図書館協議会の「バチェルーダ賞」も受賞した、日本を代表する児童文学作品である。(野上暁)

児童文学の魅力 日本編(ぶんけい 1998)
テキストファイル化 加藤浩司