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子ども時代がエピソードの珠をつないだ首飾りだとしたら、木山、山下、河辺がすごした小六の夏は、最後にして最大の珠だったのだろう。人の死に対する好奇心から、一人暮らしのおじいさんを見張りはじめた三人は、やがてそのおじいさんと心を通わせるようになる。おじいさんが戦争中に負った深い哀しみを分け合い、庭にコスモスを植え、花火を楽しむ四人。少年たちはおじいさんから多くを学び、互いの考え方や特技すら再発見した。孤独に慣れすぎていたおじいさんもまた、彼らとふれあうことで、生き生きとしはじめる。だが、夏が終わりかけたとき、合宿から帰ってきた三人はおじいさんの死を発見する。それまで、死は、無意識の中での得体の知れない恐怖だった。だが、初めて身近な人の死を経験した少年たちは、死がそれ以上でもそれ以下の重みでもなくそこに在ることを理解する。おじいさんの肉体ではなく魂を思うとき、死はもはや恐怖ではない。また、少年たちは、三様に家庭の悩みを抱えてもいたのだが、この経験を契機に、それぞれの選択の中で自分の道、自分の生き方を進みはじめる。 ここにあるのは大人が言語化し、客観化した子ども時代かもしれない。過ぎてからしか見えない一夏の意味は、大人のノスタルジアとからみあう。だが、成長してしまった大人しか持ち得ないまなざしから、子どもと大人のはざかいに生きる少年たちの一夏を、哀歓をこめて描いたことで、この作品は高い評価を受けているのである。翻訳されたThe Friendsは、アメリカでバチェルダー賞を受賞している。日本的風土の色濃い作品だが、死の現実感が希薄な(=生の現実感も希薄な)現代社会で、どのように生と死を実感するのかというテーマに、児童文学特有の「成長」というテーマを重ねたことで、国境を越えて多くの共感を呼んだのだろう。(鈴木宏枝) |
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『ユリイカ』1997年9月号