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邦題を見ただけで、これは、よほどネコ好きの作者によって書かれた、ネコ尽くしの話に違いない、と決めてかかって読み始めたのだが、案の定、ネコを主人公とする話ばかりが八篇の短編集で、作者も、『人間になりたかった猫』を書いたロイド・アレクサンダーであった。しかし内容は、魔法で人間の姿にしてもらったネコが、人間社会の中で、数々の失敗を繰り返し、様々な経験をするうちに、次第に人間的感情が豊かになり、人間性に染まりすぎたために、ネコに戻れなくなってしまう、『人間になりたかった猫』の話とは対照的に、今回の作品は、賢いネコが、ネコらしく振る舞いながらも、人間社会の中で大活躍する愉快な物語である。 第一話「ネコの町長」は、偉い政治家や軍人が一人もいない、のんびりした町に、収奪目あてに赴任してきた王様の代官を、ネコが町長に、人間がペットに扮し、追い返す話。 第二話「ネコ王の娘」は、父から結婚に反対され、不本意な見合いを強いられている王女にも偶然王女の部屋に入り込んだネコが成り代わり、花婿候補者を次々と退散させ、王女への真実の愛を示した王女の恋人と王女を結婚させる話。 第三話「〈ダメ〉といったネコ」は、命令に盲従する家来達に囲まれ、退屈していた王様のチェスの相手をしていたネコが、勝負をごまかそうとする王様に、初めて「〈ダメ〉という拒否・否定を表す言葉を発止、正直な「〈ダメ〉は、偽りの〈はい〉よりも尊いことに気づかせる話。 第四話「ネコと黄金の卵」は、強欲な商人が、ネコにだまされ、金貨を生むと信じて卵を抱く話。 第五話「くつ屋とネコ」は、おじの遺産が転がり込み、成金趣味的に紳士ぶるくつ屋を、賢い彼の飼いネコが、夜のネコの集会に主人を連れ出し、彼の愚かさに気付かせる話。 第六話「絵かきの飼いネコ」は、町の議員達の肖像画を描くことになったが、なかなか彼らの気に入る絵が描けずに悩む気弱な貧乏画家を、彼の飼いネコが、一晩でユニークな絵を仕上げて助ける話。 第七話「ネコとヴァイオリンひき」は、貧しいヴァイオリンひきが、訪ねてきたネコを助け、ネコの舞踏会に心よく出演したのがきっかけで、そのネコを相談役にしている王女の婿になる話。 第八話「見習いネコ」は、飼いネコを一人前にするために仕事を覚えさせようとした夫婦が、ネコを、乳しぼり、機織り、パン屋へ修行に出すが、どれにも失敗し、家ネコでいるのが一番相応しいという結論を出す話。 どの話も、賢く勇気あるネコ達が、持ち前の知恵と機転で、飼い主や困っている人々を助け、欲深な人間や傲慢な人間を懲らしめる話である。また、それらは、ほかからの強制、支配を大いに嫌い、仕事らしい仕事は何もせずに、のんびりと暮らすのが好きで、暗闇でも物が見え、夜中に出歩き集会をする、といったネコの習性や特性をうまく生かしながら、ネコの賢さや優しさとは対照的に、人間の愚かさや身勝手さを、ユーモラスにも鋭く諷刺している。 しかし主人公の八匹のネコ達は、それぞれ異なるネコであるにもかかわらず、一匹一匹のネコの個性には欠ける。どのネコも一様に、利口で勇敢で機知に富む。その意味では、邦題に見られるような、漢字とひらがなとカタカナで書き分けられるべき多彩さは、彼らにはない。 猫だけでなく、ほかの登場人物も非常にタイプ化しており、これは、作者のほかの作品にも共通する特徴の一つである。また、作者は時として、言いたいことをそのまま言葉にする傾向もある。そのため作品に深みがなくて、物足りないと感じる読者もいるかもしれない。しかし、それは逆に、平明に戯画化されたおもしろさを生みだしてもいる。そのため、比較的年齢の低い子供達にまで、読者層を拡げることができるのではあるまいか。 作者は、タランを主人公とする五部作のハイ・ファンタジーを書き終えた後、中世から十八世紀を舞台にしたユーモラスな作品を多く書いている。この作品もその一つであるが、ラッロ・クビニーによる、古い銅版画のようなさし絵が、作品の雰囲気を更に盛り上げている。(南部英子)
図書新聞1998/07/09
テキストファイル化 妹尾良子
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