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話はごく単純である。 「ぼく」が、ある夜、家に帰ると戸口に猫がいる。この猫は牛乳や魚ではなく、クラリネットの音でどんどん大きくなる。とうとう家がこわれ、「ぼく」は猫の背中で暮らしながら旅に出て、行く先々で人々にクラリネットをきかせる。 この猫がじつによい。最初に登場した小さいときには、戸口で「にぃー」と笑っている。はじめてクラリネットをきいてちょっと大きくなったときにも「にぃー」と笑っている。家をこわしたときも、イヤホーンを耳にはさんでひじ枕して「にぃー」。 白くてふわふわで、いつも微笑んでいて、大きくなると、枕にも、背もたれにも、ベッドにもなり、果ては人間を乗せて空を飛ぶ猫。音楽をきくだけで大きくなる猫。 これは、一つの生き方の提示だと思う。白い猫は、平穏、柔和、弾力、清潔、快適、共存などを象徴するのだろう。人びとに美しい楽の音をきかせて、必要最低限の収入を得る暮らしは、牧歌的な人間らしい生活である。子どもの文学も書くイギリス作家ジョーン・エイキンは「多くのイギリス人は、よい音楽と一杯のビールとよい友だちがあれば充分と思っている」と言ったことがある。ヨーロッパの上質なさし絵の伝統をひくような作者の絵を眺めていると、そんな彼女の言葉や、放浪の詩人スナフキンのことなどが、しきりに思われる。(神宮輝夫)
産経新聞 1996/06/14
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