ねずみ女房

ルーマ・ゴッデン作

石井桃子訳 福音館書店 (1951)

           
         
         
         
         
         
         
         
         
    
西欧では専業主婦を、「家の中の天使」と言って奉った時代があります。けれど、「天使」の前についている「家の中の」がくせ者。それはあくまで彼女が、家の中にいるならばということで、もし、家の外に出たならば堕天使となるぞ、とのメッセージが裏側に張り付いていました。現代のフェミニズムの出発点の一つが、この「家の中の天使」扱いへの異議申し立てであったのは、当然といえば当然のことでしょう。
では、この「家の中の天使」を、児童文学はどう扱ってきたのか。基本的に子どもを中心に置くそれにとって、「家の中の天使」はただ一つの側面、すなわち「母親」だけを強調しがちでありました(今もかな?)。こちらも天使と見なされている子どもを育てる役割としての母親。それは何の批判にもさらされる事なく、肯定的に描かれやすい。そのとき、母親である彼女が、「家の中」にいるかぎりは天使として扱われるだけの存在である事実は、見えにくくなる。児童文学がしばしば性差別を含んでしまう理由の一つがこれですね。
さて、「ねずみ女房」(原題では、マウスのMをHに変換すると、「主婦」の意味となります)。タイトルからも想像できるように、「母親」を強調していません。そのため、「家の中の天使」の実像が浮かび上がってきます。夫がいて、可愛い子どもを育てている真っ最中のねずみ女房。幸せ一杯のはず。が、何か満たされない。
食料調達にでかけたある時、窓辺にぶら下げられた鳥籠の中のハトを発見。ハトはどうやらエサを口にしていないらしく、有り難やこれで食料調達は楽になる、と思うねずみ女房。毎日エサを失敬に行く間に彼女は、ハトと言葉を交わすようなる。ハトは自由であったころ知っていた外の世界の様々なことを、彼女に語ります。風の匂い、木の葉のざわめく音などを。それらを失った今はもう、生きる意味がないと思うハト。一方のねずみ女房は気づきます。ハトが奪われてしまったもの、それは自分がこれまで得られなかったものでもあると。家の外の情報ですね。
そんなわけで彼女、お家に帰ってもぼんやり。何が不満かを理解できない、する気もない夫はご機嫌斜め。ハトはどんどん弱ってきます。ねずみ女房は体を張って籠の扉を開けます。それは、もうハトから家の外の話を聞けなくなってしまう行為だと知りながら。けれど、飛び去るハトを見送るとき、彼女は窓から初めて、空を眺めます。たった一回のその経験に満足し、彼女は夫と子どもの元に帰っていく。
ラストの処理に時代(51年刊)を感じるとしても、これは、母親が女房でもあり、そして何より、閉じ込められたくはない一人の女でもあるのだということを、とても素直に描いた、極上の一品。(ひこ・田中
 「子どもの本だより」(徳間書店)1996年7,8月号