|
これは、戦中少国民として子どもを鼓舞した日本の児童文学が戦後処理をどうしたかを探った書物である。結論から言えば、「児童文学は、その重大な転換点にあって、子どもたちの置かれた精神状態を正確にとらえることさえできずに、いたずらに理念だけが民主主義のスローガンとともに戦後現象に追従した」ということになる。 なぜそうなってしまったのか? それは、彼らが「子どもを素材にしながら、常に未来を、明日の夢をつむぐこと」で、自己を問いつめることなく、「主体的な戦後意識」を持つことがなかったからだと著者は述べる。 問題はやり過ごされたのだ。 その振る舞いは、児童文学に関わる人間として、読んでいて胃が痛くなるほどだし、それを知らず済ませてきた自らを恥じたくなる。 と同時に、それを明らかにすることは、現代の日本の児童文学を活かすために必要なのだと、この書物は教えてくれる。 児童文学は時として、それに関わる大人が陥る罠、すなわち、「子どものために」という隠れ簑によって自らの主体を放棄する危険を常に持っている点を忘れてはならない、と。 戦後を子どもとして生きていた、つまり彼らの直接の読者、当事者であった野上にとってこれはなんとしてでも書く必要があった問題に違いない。そしてそのことがこれを、児童文学に関心がある人はもちろん、戦後処理問題に興味ある人にとっても貴重な書物にした。(ひこ・田中)
産経新聞1998/10/03
|
|