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ちょうど一ヵ月の時を置いて立て続けに出版された野上暁の評論『日本児童文学の現代へ』そレて「〃子ども〃というリアル』は、それぞれ別に読むよりも二冊併せて読んだ方がはるかに面白い。 『日本児童文学の現代へ』で論じられるのは、敗戦直後から一九五○年代末に至る児童文学評論の物言いを詳細に分析していくことであぶり出される、驚くほど「無邪気な」児童文学者たちのメンタリティである。例えばそれは、翼賛団体である少国民文化協会に戦時中勤めていた児童文学者が、敗戦後、そうした自身を内省することなく「民主主義的な児童文学を創造し普及する」といった理念を安直に掲げてしまえる姿であり、あるいは、子どもに児童文学が読まれなくなったとき、自己責任を追及することなく「保守反動的な児童読物」のせい、マンガのせいにして憚らないあり様だ。 こうした当時の児童文学の世界に批判を加えたものが、一九五三年の早大童話会によるマニフェスト「『少年文学」の旗の下に!」である。リアリズムに立脚した童話伝統批判であるこの宣言を、著者は「情況の産物」と見倣し、ゆえに「一つのエポックとな」り、「我が国の児童文学の現代の起点」となったと意味づける。しかし、関連する言説をも含め綿密に分析をおこなった末、明らかにされるのは、「皮相な政治主義的メッセージが文学の世界でまかり通ってしまう」「児童文学というジャンルが抱え込んだ敗戦後の特殊な問題性」の無自覚な継続である。 このようなことが、なぜ起こるのか。 その原因についても、本書は示唆を与えてくれる。「そこ(子どもという聖域)に安住するかぎり、自己を厳しく問いつめる必要はない。なぜなら、子どもを素材にしながら、常に未来を、明日の夢をつむぐことができるからなのだ。戦後児童文学の出発点に眼を向けたとき、どうしようもなく浮かび上ってくる同時代児童文学者の姿は、そういった聖域に安住する、良心的で小心なオポチュニストである」これは敗戦直後の児童文学者を評した言葉だが、しかし悲しいかな、今現在でも通用する正鵠を射た分析といえるだろう。 通読して感じるのは、驚きというよりもむしろ、彼らの「無邪気さ」への呆れだった。 さて、『日本児童文学の現代へ』では徹底的に抑えた筆で分析と批判を加え続けた著者が、打って変わって軽やかさで自説を展開してくれるのが『〃子ども〃というリアル』である。「消費社会のメディアと〃もの〃がたり」とサブ夕イトルの付された本書は六○年代から七○年代を視野に入れた上で、主に八○年代から現在にかけての子供文化・現象を考察したものだが、実は、その端々で著者自身の「子ども観」が語られていくのが興味深い。 「時代の過敏なセンサーとして」の機能を「子どもというリアル」に見出し、そこから大人社会を逆照射していく。この視点こそ本書のテーマである。あるいはまた、「大人には理解しがたい破壊願望や解体欲求が子どもにはあ」り、「それが暴力的なエネルギーであり、成長を促す力でもあるのかもしれない」と仮定する。さらに、そうした「若いエネルギーの集団的な発散は」「時の政治や権力に組織的に反逆」し「社会を変革する力にもなっていた」と、歴史をひも解きながら語るのだ。おそらく、こうした「子ども観」を持つからこそ、詳細に触れれば触れるほど絶望的な気持ちにならざるを得ない子どもの本の世界に、あえて著者はとどまるのだろう。 これまでの児童文学者と同じ愚かな轍を踏まぬよう、「子どもの本(文化)は、かくあるべし」という表現を、この二冊では注意深く避けている。が、しかし、ここには間違いなく、児童文学も含めた子どもに関わる商品の、文化としての可能性と面白味がすくい上げられているといっていい。 (甲木善久)
読書人1998/10/23
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