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しあわせな家族であるために今欠けているもの。求められているもの。ケイレブはそれを「歌」という言葉で表現する。 大人としての現実的判断から、主婦として母としての役割をこなせる人が必要であるということで父親は求人広告を出すのだが、ケイレブにはしあわせをもたらしてくれる人、歌をうたってくれる人でなければならなかった。 幼い子どもの言葉として発せられた単純な表現は、そのまま象徴的な意味をこめられることによって大人の言葉ともなり、そのような言葉をつないで物語はすすめられる。 ケイレブの求めが「歌」であったように、サラがこれから行こうとする所には「海」がなければならなかった。兄の結婚によって新たな居場所を探す必要に迫られて求人に応募してきた彼女であるが、海と離れた所へ行っても彼女にとっての新たな海がそこに求められるかどうかが問題であった。 試験的にということでサラがやってくる。 動物たちとも、子どもたちともすぐになじみ、そして彼女は歌をうたってくれる。ずっとうたわなかったパパもうたう。 草原は海のよう、干し草の砂浜もいいと言い、花壇を作り、にわとりを飼い、ドライフラワーを作り・・・。サラが日ごとに新しい居場所としてここが好きになり、姉弟や父親を受け入れていくのがわかる。 アンナとケイレブにとっても今やサラは離れられない人である。サラによって自分たちに欠けていたものが満たされるのを実感する。だからこそある日彼女がでかけていったときの不安は大きかった。彼女は帰ってきた。はっきりと四人で家族することを選んだのが示される。 素材は一昔前の実話から取られたといい、作品の背景も特に今の時代を意識して作られていないが、ここに描き出されたサラは今の女性であり、ここに創り出された家族もまた今日の家族である。 兄の結婚によって居場所を失った女が、自らもまた結婚によって居場所を求めるというのは一昔前の女の生き方を思わせるが、行き先が都市サラリーマンならともかく、生産農家であることで納得いく。女の仕事としてというより生活者として、料理もすれば、オーバーオールを着て屋根の修理もするという行動力、好奇心、楽しむ能力。無理をして努力して代理母になろうという姿はそこになく、ありのままで男と子どもの関心や喜びを共有できる。そこから自然に先ず子どもたちに受け入れられ、彼女の方でも受け入れる。 新聞広告、一ヶ月の試験期間などという現実的な段階の上ですすむ話でありながら、一歩はずれるとうそっぽくなってしまいそうな美しい愛と詩。居場所を得た女と、彼女によっと完結した家族の成立の物語。 四人の中の父親像がややはっきりしないのが惜しまれるが、それでも「あたりきさ」の連発でサラへの好意が深まって行く所、どんなサラの言葉もさらりと受け止める態度に二人の距離がちぢまっていくプロセスが感じとれる。 少女アンナの視点から語られていることや、また彼女は自らをよりも、ケイレブを代弁をすることによって二人の思いを伝えていることで、幼い人特有の情感が流れる。現実世界と心象世界がないまぜになり、そこに現れたサラという女性も「のっぽ」て゜「ぷさいく」で平凡な女性なのにもかかわらず、ここではさわやかに生かされている。 古風で新しい作品である。(松村弘子)
児童文学評論 1991/03/01
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