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『のぞみとぞぞみちゃん』はまずは説明していい作品である。作品の構成としては、幼児の生活を素材にした六編から成る連作ファンタジーで、第一話の「るすばん」で主人公ののぞみの前に“ぞぞみちゃん”が現れる。第二話はのぞみに弟ができる話で、第五話ではこの弟は歩けるようになっている。そして、最後の第六話「のぞみは一年生」はタイトル通りにのぞみの小学校入学式の朝の話である。つまり、この作品は五歳から六歳までののぞみの“成長”が描かれた物語といって差支えないだろう。 「ぞぞみちゃん」はのぞみにしか見えない、文字通り“分身”である。のぞみはもっと小さい時「のぞみ」と発音できずに、自分のことを「ぞぞみちゃん」と呼んでいたが、その言い方からはとうに卒業していた。ところが、五歳になって一人で留守番するのぞみの前に現れた女の子は、自分のことを「ぞぞみちゃん」と名乗るのである。以来、どちらかというとのぞみが精神的に鬱屈をかかえた時にぞぞみちゃんは(その時によって大きかったり、小さかったりするのだが)どこからともなく現れ、のぞみの敵役やなぐさめ役やなぐさめられ役をこなしていく。 人間が自分の内側に「もう一人の自分」を形成するというのは、自己との対話を成り立たせるための基本的な仕掛けということだろうが、子ども、特に幼児の場合はその相手がより人格化していることが求められるのかも知れない。そうした「幼児のアイデンティティー」とでもいうべきモチーフが、この作品においては実に見事に作品自体の仕掛けやストーリーに結実している。普通、作品の魅力を語るのに、その作品のテーマやモチーフをストレートに持ち出すというのは禁じ手なのだが、この作品の場合はそうでもない。その点では神沢利子の『くまの子ウーフ』に似ているし、これは作者に相応の批評意識がなければ成立しない業だろう。 それにしてもぞぞみちゃんの“人物像”はおもしろく、おかしい。のぞみとぞぞみちゃんのやりとりも抜群におもしろい。のぞみはぞぞみちゃんによって楽しまされ、癒されると共に、批判され、はぐらかされる。その距離感の自在さが恐らくこの作品の魅力のもとにあり、それはもしかして自分自身が自分にとっての初めての「他者」であるというテーゼを、この作品が確かに言い当てているということかも知れない。 作品の最後、第六話の終わりで、ぞぞみちゃんはのぞみの影法師と一体になり、ぞぞみちゃんとしての実体を消滅させる。読者にとってそれはうれしいことのようでいささか悲しいことでもあり、それこそ「成長」ということへの賛歌と挽歌の見事な融合を、僕らはここにみることができるのである。(藤田のぼる)
児童文学の魅力 日本編(ぶんけい 1998)
テキストファイル化山地寿恵 |
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