七人の大昔の幽霊

たかしよいち(たかし・よいち)作 スズキコージ(すずき・こーじ)絵

理論社(1996)


           
         
         
         
         
         
         
         
    
 この「七人の大昔の幽霊」は、「七人の主人公−七つのびっくり話」というキャッチを付けられた「七人の七不思議シリーズ」の中の一冊。たかしよいち+スズキコージのコンビによってはすでに、「七人のゆかいな大どろぼう」と「七人のおかしな妖怪たち」も出版されています。だから今後、あと四作発表され、七冊で完結となることでしょう。
 「縁起物や、呪文でもなかろうに、七、七、七などと。いやはやなんとも、子どもの本というものは」と首を振るあなたは正しい。この七にはなんの必然性もなく、たぶんシリーズ名にある「七不思議」がまず発想としてあり、そこから他のものを七で括ることとしたのでしょう。「三人の三大祭シリーズ」でも「百人の百名山シリーズ」でもよいのです。
 そして「七なら七(三でも百でもよろしいが)で綺麗に線引きしたり、区切ったりできない世界をいかに描くかが小説の小説たる意味であろう。だから、やっぱり、いやはやなんとも、子どもの本というものは」とのため息も正しい。八つ目の不思議があっても少しも不思議ではないし、ひょっとしたら六人分しかエピソードがないのに数字合わせに無理やりもう一つ捻り出しているかもしれない。どちらも大いに有り得ることです。
 読まれる以前に、悪乗りとも見えてしまうこうした数字合わせを堂々と行うことによって、この物語、自分は小説なんぞではなく「いやはやなんとも、子どもの本」なのであると宣言している。
 「子どもの本」とは現代小説が置き去りにしていった/いかざるをえなかった数々の物語の素が、読み手の対象として子どもを視野に入れていることによって、まだ結構残存している場所。近代、科学の時代が「子どもだまし」として、子どもに下げ渡した昔話もまだ元気でいる場所です。自分はそこに生息するものだとの看板を掲げることで、この物語そこに展開するアホらしい出来事をそのまんまで楽しんで下さいと、誘いかけている。
 ちびとのっぽ、二人の若い考古学者がいて、教授の命令で野原をショベルで掘っている。土器も石器もちっとも出ない。「ぼくたちは、土ほり人夫ではない。考古学者だ!」。頭にきた二人は作業を止め、眠り出す。目覚めると大昔の幽霊がいる。幽霊は彼らに頼み事をする。例えば縄文時代のまじない師のばあさんの幽霊は、「わしゃ苦しい。腹がはって、どうにもならん。ウンチ出したい、おならひりたい」と言い、二人が墓を掘り返すと人骨の胃袋のあたりから小魚の骨が多量に見つかり、ばあさんは消化不良で死んだとわかる。すべての骨を取り除き終わると「当然ボワーンというはれつ音とともに、腹から尻にかけてたまっていた黄色い粉が一気に空中にとんだ。『くさーっ!』」となり、二人は卒倒する。というようにして、七人の大昔の幽霊を次々と助けていく話が展開するわけです。
 したがってそこには、子どもに何かを学ばせようとする、もうひとつ別の「子どもの本」の匂いはかけらもない。よくもまあこれだけ無理からに七で揃えて、アホらしい話を語るもんだと、あきれかえって笑っていればいいのです。笑って読み終えたら、さっぱり忘れてしまうのがよろしい。それはとても気持ちのいい経験です。 こうした物語は確かに、「子どもの本」であることによって書き得るわけですけれど、読み手は別に子どもである必要はもちろんなく、現代小説に疲れたときの、よき消化剤となるでしょう。
 ところで、だれかからの依頼を果たすことで話が進んで行くパターンはどこかにあったなと思えば、RPGがクソゲーである有力な条件の一つ、「お使いゲー」と同じなのでした。にもかかわらず、この物語が、クソ物語とは思えずむしろそのことが心地いいのは、参加型であるTVゲームプレイと、読書の違いなのだろうかと、考えたりもするのです。(ひこ・田中
図書新聞97