晩年の子供

山田詠子 講談社文庫 1994

           
         
         
         
         
         
         
     
 この本におさめられているのは八つの短編で、どの物語も思春期にさしかかった作者の分身と思われる少女の心の歩みをテーマにしている。物語のキー・ワードは性と死かな。大人の入口にさしかかった少女が、恐る恐る大人の世界を垣間見る…そんな雰囲気の物語だ。

 子どもの中には、時として、余りにも感受性が鋭敏なために、他の子どもたちには感じとれない何ものかを感じとる子どもがいる。そのために、その子は、変わった子、ミステリアスな子として疎外されたり、笑いものにされたり、ある時は尊敬のまなざしをもって見られたりするのだ。『晩年の子供』のヒロインたちもそんな少女で、これは作者の少女時代の実像の断片だろうか。
 彼女たちは、この物語集の中で、あからさまに人に尋ねられることが憚られる「隠微な世界」を感じとる。それは性と死の匂いのする世界だ。そう、性と死に共通しているのは、思春期に入ろうとする子どもたちが、かすかにその存在を感じとり、心ひそかに憧れながら、口に出して人に聞くことができにくいものだと、いうことだろうか。ここで扱われる死とは、生の裏返しなのだ。子どもが、今まで考えもしなかった死について考えることで、生の意味を考えるという図式において。とすれば、これは思春期の一つの通過儀式(イニシエイション)を描いた物語だといえる。
 現代の子どもたちにとって、性や死の情報は、日常茶飯事のように入ってくる。現実には身近に遭遇しなくても、テレビやビデオやコンピューター・ゲームといったバーチャル・リアリティの世界でふんだんにお目にかかれるから。従ってこの物語は、まだ性や死が神秘的であった時代の産物かもしれない。

 この本の中で死の匂いは、「晩年の子供」で犬にかまれ死の影におびえる私、「堤防」で海に落ちた私、「桔梗」の花のように儚く美しい美代さん、「セミ」のなきがらと空っぽのおなかの中、そして、死んでしまった「ヒヨコの目」にそっくりの目を持つ薄幸な少年相沢くん…。
 性の匂いは「堤防」の高校時代の友の妊娠、「花火」の対照的な姉妹の恋、「桔梗」の美代さんと恋人、「海の方の子」の哲夫のわけの分からない魅力、「セミ」で父母のSEXの結果生まれたと知った弟への反感、そして「ヒヨコの目」の相沢くんへの思い…。
 はじめて知った隠微な世界を通り過ぎて、少女は少しずつ女になっていく。

 誰にもそんな大人への入口があったのかもしれない。私にも? 国民学校2年生の夏、私を可愛がってくれていた近所のおばあさんが死んだ。私にとって身近な人の初めての死だった。母について通夜に行き、外で星を見ていた。星が流れた。年長の男の子が、いつのまにか側に来ていて、
「あの星は、おばあちゃんのタマシイだ」
といった。おばあちゃんは、まだ半分生きているかも? という儚い望みをむざんに打ち砕かれ、私は怖くてしゃがみ込んでしまった。…流れ星を見てしまったんだもの、おばあちゃんは、やっぱり死んでしまったんだ…と、私は仕方なく納得した。恐ろしくて胸が張り裂けそうだった。男の子は私に手をさしのべた。思わずその手にしがみついた。「男女七歳にして席を同じうせず」と教えられた時代だった。それなのに、男の子の手を握るなんて…。
 その後、彼を見かける度に他の子とはちがう何か、オーラのようなものを感じた、でも、弱点を握られているような恥ずかしさから、彼をわざと無視し続けていた。軍人だった彼の父が戦死し、彼は母と二人、田舎へ引っ越して行った。何もいわないうちに。

 大人への入口で、子どもたちは、ふいに立ち止まることがある。今までなだらかな坂道を少しずつ上るように無邪気に成長して来た子どもたちが、急に目の前にそそり立つ大きな森を見つけた時のように。その森は、戸惑い、恐れ、恥じらいを感じつつも、どうしても入って行きたくなるような、ふしぎな魅力で子どもたちをひきつける未知の世界だ。そして、その森をぬけ出た時、彼等は一歩大人に近づくのだ。そんな森を通ったことさえ忘れてしまった大人が大部分だろう。しかし、山田詠子は、その暗く、さびしく、いとおしく、やさしい森の中でのできごとを、詳細に記憶していて、この本の中で、私たちの目の前にひろげて見せてくれた。私には、そんな気のする一冊であった。(山田明子)
たんぽぽ17号
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