べろ出しチョンマ

斎藤隆介・作/滝平二郎・絵
理論社/1967

           
         
         
         
         
         
         
     
 革命的ロマンチシズムという言葉を使い出したのは斎藤隆介だと思われるが(「『八郎』の方法」日本児童文学臨時増刊『民話』昭和48年1月)、童話集『べろ出しチョンマ』ひいては斎藤隆介の世界作品の底に流れているのは、ロマンス(愛の世界)の精神であるといって過言ではなかろう。彼は、人間が根源的にもっている情念とか情愛といったものを大切にする作家であり、それが不条理や不正や不善を前にしたときより強く燃え上り、行動的なエネルギーとなって流出する。その精神の奔流ともいうべきものをクローズアップするのが斎藤隆介の世界である。

 この山は八郎って言う山男が、八郎潟に沈んで高波を防いで村を守った時に生まれた。あっちの山は、三コっていう大男が、山火事になったオイダラ山サかぶさって、村や林が燃えるのを防いで焼け死んだときに出来たのだ。/やさしいことをすれば花が咲く。命をかけてすれば山が生まれる。

 これは「プロローグ『花咲き山』」の山ンばのコトバである。そしてある程度まで斎藤文学を象徴するコトバでもある。第17回小学館文学賞を受賞したこの作品は28編からなる創作民話風の童話集であり、大人も子どもも含めて多数の読者を魅了し、さらに「八郎」や「三コ」や「花咲き山」や「モチモチの木」という作品が滝平二郎の切り絵により大型絵本化されることによって、その何十倍もの読者をつかんだ。「したらば、まんつ」といって荒れる海を押し返しながら身を沈める「八郎」や、ジョヤサ、ジョヤサと燃える山めがけて駆ける「三コ」という巨人たちには確かに無限の魅力がある。映像的憧憬的なスケールの大きさはもとより、彼らの行動の起点となるものが百姓や木こりという民衆(読者の側)への限りない<情愛>に満ちているからである。同時に、頭髪に巣作りして遊ぶ小鳥を驚かせない気づかいや「バ、ばかケとはナ、なんだ」と雲にからかわれてムキになる純心さや、海に入るときも後ろを向いて「チラと笑う」照れといった人間くささが、読者に共感を呼ぶのだろう。つまり、八郎も三コも、百姓の総体としての巨人(英雄)でありながら、同時にひ弱でちっぽけで人間っ ぽい百姓一人一人の分身でもある。<情愛や情念>というものは、内に秘めているときは絵になりにくい。それが具体的な行動と結びついて初めてそこに物語としての<絵>がくっきりと浮かび上る。八郎や三コは情愛を犯すものと<死>を賭として対峙することにより、無限の行動エネルギーを注入される。生と死のぶつかりあいほど壮烈なものはないが、○へ向かう(○○)があまりにもストレートなため、ここに斎藤文学の○力ととまどいがあるのも事実である。
 この童話集の目次では”大きな大きな話”(6編)”小さな小さな話”(11編)”空に書いた童話”(9編)と三つに分けられている。「緑の馬」「白い花」「寒い母」という他国風な作品も含めて、多様な作品群を一冊の童話集にまとめ上げるのに編集上の手腕を感じるが、分類という点では別の捉え方も考えられるだろう。つまり、斎藤隆介の表の顔と裏の顔という分け方である。表は「八郎」や「三コ」や「天の笛」や「べろ出しチョンマ」に代表される死を賭す革命的ロマンティシズムの流出であり、裏は「なんむ一病息災」や「ソメコとオニ」や「トキ」に流れる大らかな<生>、生きつづける<生>、をつづったのびやかな世界である。表を点(死)の世界とすれば、裏は線(生)の世界である。両者の中間に位置する世界としては、「モチモチの木」や「死神どんぶら」が上げられるだろう。だが、簡潔でキビキビとした詩のような文体は、情景や物語よりも生の死のはざま(線ではなく点)を鋭利な刃物でスパッと断ち切って、その断面をキラリと光らせる方により卓越した効果を感じる。だから斎藤隆介といえば「八郎」という風に彼の表の顔が幅広い○○をもって○えられているのはう なずけるが、私がこよなく愛するのは斎藤隆介の裏の顔である。
 「ソメコとオニ」は誘拐されたソメコが初めて一緒に遊んでくれる相手をみつけたので、オニにママゴトやカクレンボ等をせがむ。オニは身の代金を取ってやろうと思っていたが、ソメコと遊んでいるうちに楽しくなって、いつのまにかソメコのペースにはまり、とうとう「はやくソメコを連れもどしにきてくれ」と手紙を書く。この作品は、何度読んでもぷっとふき出してしまう。ここには求道感や使命感でなく、生きている楽しさ、感性の解放としての大らかな笑いがある、身分や優劣強弱といった選民価値を笑いとばす生命力にあふれている。人にはそれぞれその人らしさ、性があり、自分にそなわった内質を大切にすることにより互いの生を尊重し、自由で大ような生きる楽しみが湧き上る。こういう生き方は、己の内質をとびこえたり、投げすてたりする生き方との対照で表現しやすく、斎藤作品も例外ではない。「なんむ一病息災」の与茂平は、元気者で働き者の五郎市が早死にしたのに、いつか弱いまンまに弱い嫁さまをもらい、やがて弱い嫁さまは弱い子を生んで、まずまず白髪のはえるまで○○○○、という。こののびやかに生きつづける○の発想は、「もんがく」の首のまがった婆さまや 、「おかめ・ひょっとこ」の火男の若い爺さまにめとられたおかめや、「死んでたまるか。ふン縛られても、首を切り落とされてもおれは死なねえ。死なねえぞ死んでやらねえぞ、生き抜いてどうしてもやりてえことをやり通すんだ!」という「浪兵衛」の不死身の豪右衛門らに流れるものである。
 さて、「花咲き山」という革命的ロマンティシズム(表)でプロローグした斎藤隆介が「トキ」という<生>の謳歌(裏)でエピローグをくくっているのは何か含蓄があるのだろうか。おそらく表と裏のこの二つの世界は、作者の中では一つに融合された世界であり、幼いときのミッタクナシのトキ(醜)も、荒れる海にウォーイと入っていく八郎(美)も同一人間の諸相であり、人間の精神といえるのだろう。だからこそ、人間は「夢の鳥」のトキのようになって大空を飛ぶことができるのだろう。(松田司郎
日本児童文学100選(偕成社)

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