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 もし「戦後」の子どもというものが、もはやそれまでの子どもと同じでないと言えるならば、そのことを逸早く戦後の一時期に、はっきりとわれわれに告げてくれたものは何であろう。
 現実の子どもの姿はさて置いて、それを戦後という新しい状況の中で描き出したのは、映画か、大人の文学か、それとも児童文学かと言うことである。
 映画の領域でだけ考えるなら、「ビルマの竪琴」が雑誌「赤とんぼ」に発表された年(一九四七年)たとえば「みどりの小筺」 (島耕二、演出)が子どもの姿を提示している。また「ビルマの竪琴」が雑誌連載を完結した年(一九四八年) 「手をつなぐ子ら」 (稲垣浩) 「蜂の巣の子どもたち」 (清水宏)が上映されている。(教育映画としては四七年に「子ども議会」四八年に「少女たちの発言」などがあるが、ここでは一般に公開上映された作品だけを取りあげている)。
「戦後の荒廃の中に明るい希望の灯をつける感動の名作」そんなうたい文句をつけた「みどりの小筺」それは、山奥の一軒家の子どもが、手紙を小箱に入れて谷川に流す話であった。小箱は谷川を下り、大きい川に流れこみ、いくつかの障害を受けながら、ひろびろした海に流れ出ていき、子どもの希ったとおり、人の手にひろわれる-筋書といえばそれだけのことだが、果して、これは戦後の子どもを、われわれに示していたであろうか。おそらく作者の意図は戦後の子どもを描くということより、戦後の中に押し流されない人間の生き方-そういった善意を描きだすことにあったと思うのだが、それにしても、ここでの「戦争」は実に諦念にみちた目で描かれていたものだった。谷川から小川へ、小川から大川へ、その一本の流れは、われわれ人生の暗示である。流れ行く小箱はわれわれ人間。岩が、枝が、投石が、その行く手を阻もうとするが、その小箱にかけた善意と希望は、それら(戦争や迫害)をいつかは通り抜けて、目的の海へ(平和な世界・希望の実現する世界)たどりつくことになる。善意・願望は、必ず行きつくべきところに行きつくものであり、達成できるものである。それをはばむものは善意 の前に排除されないではいない。要は唯、その願うべきを願い、進むことだけである。そうした考え方がこの映画の底を流れていたわけだが、これは連合国の占領の開始を完全なる自由の到来と考える当時のオプティミズムとつながっていたと言える。すなわち、われわれの自由を拘束した軍国主義体制は崩壊したではないか。真面目な多くの人間は、その真面目なるが故に結局は解放された。戦争という悲劇がおそいかかったこともあったが、それは潜り抜けられるものであり、事実、潜り抜けられたのだ。それは、流れる小箱に不意に投げっけられる石のようなものであり、所々に露出する岩のようなものだったのだ。今はまだ、いろいろの苦労もあるが、やてひろびろとした海に出る。平和で自由な世界がやってくる。映画「みどりの小筺」は、われわれにそんな図式を示すことにより、われわれの戦後の悲惨が、ほんのしばらくのものであることを告げようとした。
 もちろん、この映画の子どもは、こうした構成の常識として、現実に存在する子どもでなくていいのである。希念としての子ども-と言うより、それは、われわれ自身の願望や夢にすぎない。現実の子どもは、「赤いリンゴに唇よせて、だまって見ている青い空」と並木路子が歌ったそのリンゴさえ手に入れることが出来ずに腹をすかし、骨をすかしていたのである。このことは-と言うのは、善意の勝利を謳歌することだが、精神薄弱児(原文のまま。ひこ・田中注)・孤児を主人公に持ってきた「手をつなぐ子ら」や「蜂の巣の子どもたち」の場合も避けることの出来なかった要素である。いや、避けることの出来なかった要素というよりも、それらの映画もまた、そうした考え方を積極的に打ち出したものである。映画の戦後は、子どもの世界を善意で裏うちすることによって、大人自身の混乱虚脱した心のささえ、慰みにしたと言っていい。それらの感動は子どものためと言うよりもより大人のために用意された感動であって、「笑いと涙の一時間」(あるいは一時間半)は、当時、今日と明日の中に希望を見出しかねたわれわれの、一種の後退的安定であったと考えられる。子ども自身の戦後状況そのも のは、そのためイタリア映画「自転車泥棒」あるいは「靴みがき」べルリンの廃墟を舞台にした「ドイツ零年」が上映されるまで待たねばならなかったと言える。われわれは、そこにおいて、はじめて、子どももまた大人と等しなみに「戦後」をむかえたこと・善意や願望ではどうしょうもない現実の中に置かれていることを知ったのである。ネオ・リアリズムの一連の作品の感動は、われわれ自身が、子どもをもふくめて、われわれ自身の現実を、イタリアの現実から教示されたことを意味している。
 「家が焼け、肉親を失ってからすぐに街へ出た連中には、ゆめがあった。もしかしたら、親きょうだいが何処かに生きのびているかも知れず・親せきの誰かと偶然に行き合うかも知れないからだ」 (浮浪児の栄光)と佐野美津男は書いたが、この作品に登揚するような子どもたちは、ほとんど日本映画には登場せず、そうした戦後の子どもは、海の向うで描かれた。(菊田一夫の「鐘の鳴る丘」は、この点、一考に値する)しかし、児童文学はどうか。それが子どものための文学である故に当然、そこには戦後の子どもが登場しなければならなかったはずである。たとえ、主人公として、子どもが登場しない場合でも、それらの作品は、「戦後」と言うものを、なんらかの形で受けとめ表現しなければ戦後の児童文学とはなり得なかったに相違ない。
 「子供らは困難に面している。今までにも彼らは苦しんできた。彼らは菓子が食えなかったし勉強することができなかった。彼らは限界をこえてむりに仕事をさせられた。『勝っために』 『ほしがりません勝つまでは』彼らは千松イデオロギーにおちこんでまでそれをがまんしてきた。そしてあげくに敗戦にみちびかれた」 (子供のための文学のこと/中野重治/一九四六年 新生社)
 「かくて、現在児童文学者がなすべきことは、戦争前の過去へ単純に復帰することでもなく、アンデルセンを単なる童心文学の手本としてのみ理解し、 『平和な湖畔や静かな森の中で童話を書く」ことでもない。現実に拠りどころをもたぬ貧血した童心主義によっては決して今日以後の未来性ある、あるべき児童の像はつかみ得ないからだ」 (前出/関英雄/児童文学者は何をなすべきか)
 「今日のこのこうした荒んだ状態から、子供たちを救うものは、何と言っても指導者の誠意であり情熱である。時代に迎合するというよりは当面した現実に新しい自己というものを発見して、子供たちと共に新しい日本を建設して行くという誠実がなくてはならぬ」(子供たちへの責任/小川未明/一九四六年 日本児童文学)
 これらの指摘、決意にならび、多くの児童文学者が主体的に「戦後」を受けとめた、あるいは、受けとめようとしたことは間違いない。しかし、果して、決意と等質に「戦後性」はその作品に形象化されていたかどうか。
 たとえば、ここで、関英雄の「三本のローソク」 (一九四八年一月号 赤とんぼ)を考えてみたいのである。
 闇市で売られている三本のローソクが三人の違った人間の手で買われていく。一本は父親が戦争にいって、まだ復員していない家庭に、一本は、孤児の手により大学の先生の家にもう一本は、闇商売で金もうけに奔走している黒目鏡の男の会社に-というふうにである。作品の展開は、このそれぞれのローソクが、それぞれの家で、何を見、何を考えたか、何を知り、何をやったかということを中心に進められるのだが、母と少女の家庭では、ローソクが、戦後日本の一般家庭の貧しさや苦しみを知ることになっている。少女の作文がその中心であり、ローソクはこれを盗み見して涙をこぼすわけである。大学の先生の家に買いとられたローソクは、ぺンじくやインクびんの口から、「政治の貧困」「自由の大切さ」を教えられ、もう一本のローソクは、他人の弱みにつけこんで不正な利益をあげる男たちに怒りを感じ、自ら倒れて火事をおこすという構成をとっている。
 筋書だけを右のように簡単にまとめれば闇市、停電、復員、自由、政治、ブローカー、悪徳商売と、いかにも「戦後」は定着されたかの感がある。ここにはたしかに、われわれが戦後に体験したこと、見聞したことが、ローソクを通してとは言え、提示されているからである。
 しかし、文学における戦後性とは、単に素材の時事性だけだろうか。「戦後」と「戦後現象」の異質であることは以前にふれたことであるから再説しないとして、(前出/なぜか)ここでは作品を支えている、パターンについて考えてみると、ローソクは作者の心情であると共に一種の正義の具現者なのである。少女の作文に悲劇を読みとるローソクは、戦後のそうした類似家庭に同情し、あたたかい手が必要だと思う作者なのであり、政治の貧困、自由への愛を受け入れるローソクもまた、現実にそれを知っている作者の投影として提出される。三本目のローソクは、一番目、二番目のローソク同様に、現実の不正を知っている作者であると共にそれを批判し、怒り、火事にいたらしめることによって「裁き手」ともなっている。
 つまり、不正に対立するもの、正義なのである。この「ローソク=作者」の図式は、「作者=正義」の図式でもある。ローソクは現実を知り、不正を見て怒る。そして、ローソクは、たとえ溶けきり燃えつきるとしても、その立場を変えない。燃えつき溶け去ることによって、逆にその立場をより不動のものとするだけである。
 これは、いったい、不正をにくむ作者の不動の信念なのであろうか。作者は「人民革命の遂行者たる自覚を持たねばならぬ」と言い切ったが、その自覚の徹底が、ローソクに移植されているのであろうか。そう考えれば、そう思えぬでもない。かたい決意がローソクにこめられているのだと言えぬでもない。しかし、ここにこそ、わたしは、この作品の弱点があり、実は、戦後児童文学作品の多くのもろさ、頼りなさがあると考えるのだ。
 いったい、作者は、戦前・戦中にどのような自己を築きあげたのであろう。戦争に反対し、投獄されることはなかったとしても、胸の底で戦争をにくみ、当時の社会体制に抵抗することで生き抜いてきたと言うのであろうか。たとえ、内心、このローソクのように「知り、考え、怒り」に胸をふるわせてきたとしても、戦後の到来において自己の立場は不動のものであったろうか。おさえられ、踏みつけられ、拘束され、制限された長い時代。その中にあって確立された自己は、戦後の到来と共にそのまま前面に躍り出し、そのまま「戦後」のオピニオン・リーダーとして通用するほど強固な、かつ不動のものであったと言うのか。
 それならそれでいい。自己において何ら付け加え、反省することがないならば、それはそれでいい。しかし、作者は批判的であればあるほど、自らを押し流そうとした社会体制、自らをも巻きこんで押し流そうとした「戦争」を明確に描き出し告発することが、その裁き手である自己の責任と義務ではなかったのか。闇商売、不正利益、父親のない家を眺め、怒り、悲しむことが、それだった-と言うのなら何をか言わんやである。自らもまた傷つくことのない戦争を経過した主体と言うものは、いかなる主体なのか。
 不動の正義、批判者、裁き手-この位置の占め方は、主体的に「戦争」を受けとめた者の取るべき位置ではなく、また取れるべき場でもないと思うのだが。一体、ローソクの作者は「戦争はおわった。さあ民主々義の時代だ。新しい歌声を」と、そんなに早く立ち直れるほどに屈託のない自己を保持していたのであろうか。
 しかし、一方、こんなふうに考えられないでもない。ローソクの正義感は、正義を希望する作者の投影である。ローソクは作者の夢みる立場である。つまり、そうあるべき姿、そうあらねばならぬ姿だったと。これは受け入れやすい解釈である。受け入れやすいだけではなく、多くの児童文学者が、多くの場合に使用した方法でもある。しかし、ここにおいてもまた、作家のグルンドの間題が否応なしに浮び上ってくる。そうあらねばならぬと考えるあなたは、それでは一体、どうであったのか。どのような位置、どのような立場にあって、そう考えたのかと。
 わたしは関英雄論をやっているのではない。「三本のローソク」について論じているのでもない。わたしは、児童文学者が「戦後」をどのように受けとめたか。どのように作品の中で取り扱ったか。そのことこ言いたいために、具体的な作家の作品に目を向けているのである。もし、作品論をやるつもりなら、おそらくは「三本のローソク」について、その余りにも型にはまった構成、風俗小説的な現象の把握、無感動性をもっと書き並べただろうと思うのだ。わたしの言いたいのは、あれほども自他の運命をねじまげた戦争の後において、精神の荒廃あるいは葛藤を通過することなく、正義や善意の「定点」に寄りかかっている作家(または寄りかかれる作家)のあり方に疑問を感じるということである。そして、このことは、ひとり「三本のローソク」の問題に止まるものではなく、多くの他の戦後の作品にも及ぶことではないか-と書うことでもある。
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