びりっかすの神様

岡田淳作・絵

偕成社 1988


           
         
         
         
         
         
         
         
     
 岡田淳は一九八◯年代初頭から、良質のユーモアと豊かな想像力でもって数多くの作品を生み続けてきたユニークな作家である。小学校の現場を熟知している彼の作品には、学校を舞台に集団としての子どもを描き、不思議を闖入させて、それに関わった子どもたちの現実が変わるという構図をもつものが大変多い。また殆どが底に現実社会の問題をふまえているといってもよいだろう。
 この作品も、始の父親は、経済社会の競争原理に逆らうことを知らず、がんばりすぎて死んでしまい、母親が、あのようながんばりはしてほしくないと息子にいい聞かせることからはじまる。そして転校先の教室で、始は、背広姿で背中に羽の生えたうらぶれた小さな男の妖精に出会うのだ。その名は、成績で最低点をとった子どものみじめな気分や感じから生まれた「びりっかす」だという。そこで始は、本当は能力があるのにわざと◯点をとって彼と交流し、クラスの成績不振の子どもたちも次々と、信じることで見える妖精の存在を知っていく。この物語のおもしろさの一つは、現実世界に闖入した不思議の存在を信じるか信じないかという、子どもたちの心の揺れがひきおこす数々のエピソードにあるだろう。その中には、競争社会に蝕まれていく子どもたちの現実が、不思議とのたわむれによって好転していく過程がユーモラスに描かれており、みんなが楽しんでびりをとるようになると、びりが駄目なものでなくなってしまうという逆説もこめられている。またテストの点数で座席まで決めようとする管理側の先生は、始が前の学校での成績は良いのにびりばかりをとることにとまどい、努力しろ 、がんばれと励まして、始のがんばらない気持と食い違っていく。その上、びりっかすとの交流を深めていく子どもたちと立場が逆転して、やがて彼らにふりまわされることになる。この愉快ななりゆきは、弱者が強者をはじき返す、風刺をこめた笑いの構図でもある。なおリレーをめぐる一所懸命の意味は、順位のための競争ではない本当のがんばりとは何かを語りかけていて、作者のしっかりとした哲理が読みとれる。
 しかし、ひとたび現実社会に目をすえて読みを変えてみると、一見生きいきと描かれている子どもたちの気持や行動に、はたしてこれは生きた人間の像であろうかとの疑問が湧いてくる。主人公始にしてからが、その心の動きをたどってみると、転校してきてクラスになじめなかった彼が、仲間を増やし、友だちの信頼を獲得していく過程に、当然描かれるべきぶつかりや葛藤はまったくみえず、始の本物の個性にはどうしてもたどりつけない。困難の前での彼の判断はすべて「びりっかす」がおしえてくれるのだ。こうみてくると、不思議の闖入によって子どもたちの現実が好転するという岡田淳の作法は、この作品では必ずしも成功しているとは思えない。こうした認識のファンタジーに常に求められてきたものは、現実世界構築の確かなリアリティーなのだから。
 にも拘らず、私のこの作品への評価はかなり高い。それは、うまく教室の状況を捉え、物語の中に作者のメッセージをこめてなお、これほど読みやすく楽しい作品は少ないと思うからだ。そして厳しい現実をありのままに映しとった物語の結末の困難さにくらべて、空想によってみつけだした明るい結末は、多くの読者に物語の効用をもたらすのではないかと思うから。ただどうしても気になるのは、岡田作品の殆どが、子どもたちがみな同じ輪に組込まれていくことで明るい結末を迎える点である。これがたとえ空想物語であっても、舞台が現実の学校にあるならば、子どもたちそれぞれが生きた個性としてのぶつかりあいを超え、はじめてそこに成立つ理解や共同の輪であってほしいと思う。(持田槙子
1994
テキストファイル化 目黒強