ボーダレス?

現代アメリカのヤングアダルトの本を中心に
金原瑞人


日本児童文学1998/9,10


           
         
         
         
         
         
         
    
 アメリカの場合、境界(ボーダー)があるのかないのか、境界を作るほうがいいのかなくすほうがいいのか、どちらも微妙な場合がけっこう多い。たとえば黒人作家のリチャード・ラィトが、やはり黒人作家のゾラ・ニール・ハーストンの書いた小説『神を見つめる目』を、白人の期待する黒人像を描いた白人迎合型の小説だとして徹底的に批判したのが一九三七年。ライトのような攻撃的な姿勢は現在でも黒人のあいだに根強く残っており、現在、その最先端がラップの歌詞によく表れている。が、一方で、黒人女優ウーピー・ゴールドバーグは「わたしは『アフリカ系アメリカ人』なんて絶対に呼ばれたくないわ……だってこの国に生まれたんだもの。わたしは、ホットドッグやべースボールと同じくらい『アメリカン』よ」と語る。もちろんライトとゴールドバーグの主張は真っ向から対立しているわけではなく、微妙にかみ合いながら、微妙に対立しているわけで、アメリカにおける少数民族の微妙な立場をうまく反映している。

 さて、アメリカの「児童書」におけるボーダーレスの現象について論ぜよという編集部からの依頼を受けて、こんな一見場違いな(もしかしたら、本当に場違いな) エピソードから始めたのには理由がある。じつをいうと、アメリカにおいては、「児童書」は昔とあまり変わらず、それまでに「児童書」で扱われていないようなシリァスなテーマや現代的なテーマを扱った作品は「ヤングアダルト向け」の本のなかに分類されることが多いからである。つまり、「ヤングアダルト」というジャンルが一種の緩衝剤のような役割を果たしているといっていい。
 というわけで、ここではまず戦後のアメリカの文化をしばらく追っていき、「子供」と「大人」のあいだに「若者」が入ってくるまでの過程を簡単にまとめ、そのあとで「若者」向けの本を中心に最近の動向を紹介していこうと思う。というのも、大人にも子供にも接点を持ちつつ、様々なテーマをどん欲に取り込んでいくこの部分は、アメリカでは五○年代後半以降現在にいたるまで、ホットでクールな20(熱くてカッコイイ)部分なのだから。もしボーダーレスと呼ぶとしたら、まずこの部分だろう。

(1)二層構造から三層構造へ

 一九五○年代の後半、リズム&ブルースにカントリー・ミュージックの要素を加味したロックンロールが生まれ、ピル・へィリー&ザ・コメッツ、 エルヴィス・プレスリーといったスターを核にアメリカ全土に広がっていく。アメリカの音楽史において、この現象は音楽ファンを真っ二っに分けることになった。つまり「大人」と「若者」である。それまでのアメリカにおける大衆音楽は、いってみれば、家族がいっしょにテレビの前で楽しめるようなもので、たとえばフランク・シナトラ、トニー・べネット、ドリス・ディ、パティ・ぺィジといったシンガーによる「おとなしくて、お行儀のいい音楽」だった。そこにエレキギターをかき鳴らし、絶叫し、腰をくねらせるロックンロールが、ある意味で、暴力的に登場してきた(当時、アメリカ各地でロックンロール排斥運動が起こったことはいまさらいうまでもない)。このロックンロールを支持したのが当時の若者だった。
 ここで注意しておきたいのは、アメリカの当時の若者がそういった文化を支えるだけの経済的な力を持っていたということである。五九年のティーンエィジャーのマーケットは約一○○億ドルと算定されており、雑誌「セヴンティーン」の編集者シガナ・アールによれば、二十歳以下の女性が自分で使える金額は四五億ドルであったという(Rock of Ages: The Rolling Stone Histor of Rock & Roll,by Ward,Stokes and Tucer)。つまりこの時代のアメリカにおいて、世界で初めて「若者」が社会的経済的に認知されたのでる。
 もちろんこういった現象は音楽だけにとどまらない。たとえば映画もそうで、『理由なき反抗』『暴力教室』(この作品の主題歌にビル・へィリー&ザ・コメッツの「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が使われ、全米ヒットとなる)という青春映画が封切られたのが五六年である。また衣類もそうで、戦前の若者は「不格好な世代」と呼ばれていた。というのは、社会に「大人服」と「子供服」しかなく、ぶかぶかの服を着ているか、きゅうくつな服をきているかのどちらかだったからである。数十年後、丸井のヤング館ができるなどと予想した人間はひとりもいなかっただろう。それが五○年代後半から六○年代にかけて、若者がひとつのファッションの流れを作っていくようになる(日本は、十年以上遅れてアメリカを追いかける格好になる)。
 つまり五○年代後半の「若者」の登場によって、それまで「大人と子供」という二層構造であったものが、境界線が一本増えて三層構造になっていくわけである。
 ところが音楽業界とくらべて、出版業界の反応は鈍かった。ここで詳しく述べる余裕はないが、おそらく、本というメディアの持つ独特の鈍感さがそこには存在する。アメリカの出版界が「若者」という層を意識するきっかけになったのは、まず六四年にアメリカでぺーパーバックで出版されたトールキンの『指輪物語』の大ブームだろう。このブームを引き起こしたのが若者たちであり、アメリカではこれ以降、若者向けのファンタジーが量産されるようになる。それともうひとつは若者のあいだに蔓延するようになったドラッグ、アルコール依存症、非行、十代の妊娠といった社会問題に触発される形で六○年代後半から七○年代にかけて出てきた、非常にリアルで現代的なヤングアダルト向けの本が注目を集めるようになったことだろう(ちなみに、「ヤングアダルト」という言葉はこの頃出版界で使われるようになったもので、音楽や映画の世界で使われることはまずない)
 つまり本は音楽から十年ほど遅れて、若者層をひとつのマーケットとして認知することになるのだが、とにかくアメリカでは戦後、年齢的な二層構造が三層構造になることは強調しておいていい。というのも、この三つの層が現代の文化のあり方をある程度規定しているのだから。

(2)アメリ力のヤングアダルト向けの本

 ここでは便宜的に、小学生以下を対象としたものを「児童書」、中高生を対象にしたものを「ヤングアダルト」、大人向けのものを「一般書」としておこう(これでいくと、大学生の読む本は「ヤングアダルト」と「一般書」の両方にまたがることになる)
 アメリカの場合、いわゆる児童書と呼ばれるジャンルは戦後それほど変化していないように思える。たしかに内容的には豊かになってきた。たとえば、マジョリティ、 つまりヨーロッパ系白人の作家によるもののほかにも、黒人、メキシコ系、ネイティヴ・アメリカン(アメリカ・インディアン)、アジア系、カリビアンといったエスニックと呼ばれる人々の作品が増えてきている。絵本においても、南部から北部の都市に移っていった黒人たちの苦難を描いたもの、多民族の歴史としてのアメリカ史といった感じのもの、第二次世界大戦中の日系人の強制収容所を舞台としたもの、ヴェトナムからの移民を主人公にしたものなど、様々である。たしかにこの点においては、アメリカの児童書はボーダーレスになってきたといってもいいかもしれない。といってもそれはアメリカ文学一般についてもいえることだし、見方を変えれば、ボーダーレスどころか、それぞれのエスニック・グループが自分たちの境界を明らかに宣言しつつある現象であるともいえないこともない。
 しかしそれ以外の面では、アメリカの児童書はそれほど変わっていない。なぜ変わっていないのかその理由は、ここでは紙面の都合もあるので、触れないで先を急ごう。こういった児童書に対し、ヤングアダルト向けの本と大人向けの本とのあいだの境界はかなりあいまいになりつつある。というよりも、ヤングアダルト向けの本が様々な形で多くの読者に読まれるようになってきているといったほうがいいかもしれない。
 そもそも初めにまとめたように、ヤングアダルト向けの本というのは、新たに登場した若者層を対象に作られたものであり、ファンタジーとリアリズムというふたつの方向性を持っていたのだが、かなりの数の作品が一般読者にまで浸透してきている。
 たとえば、六四年にぺーパーバックで出版された『指輪物語』は当時の若者層の圧倒的な支持を受けて大べストセラーになり、ファンタジー・ブームを産む。現在ではごくあたりまえに使われる「ファンタジー」という言葉が世界で初めて文学的・社会的な市民権を獲得したのはこのときであったことは強調しておく必要があるだろう。このブームがなけれぱ、たとえば、佐藤さとるのコロボックルのシリーズを初めとする「日本のファンタジー」も、いまもって「創作民話」と呼ばれていたにちがいない。
 そしてこのブームは、「ナルニア国シリーズ」や「ゴーメンガースト三部作」といった過去のファンタジーの再評価を迫るとともに、国内で「ゲド戦記」「コブナント・シリーズ」『最後のユニコーン』といった傑作を産み、海外でもリチャード・アダムズ、ミヒャエル・エンデといった優れたファンタジー作家を産むことになる。これらのファンタジーはほとんどが児童書の棚にも、ヤングアダルトの棚にも、一般書の棚にも置かれている。
 またリアリズムの作品でも、スーザン・ヒントンの『アウトサイダー』や『ランプル・フィッュ』、ロバート・コーミアの『チョコレート・ウォー』といった作品はヤングアダルトという境界を越えて一殿にも広く読まれ、また映画にもなっている。

(3)現代のヤングアダルト小説の持つ広がり

 英米でもヤングアダルト向けの作品群はかなり幅が広く、集英社のコバルト文庫、講談社のX文庫などのようなエンタテイメントもあれば、SFやミステリもあるが、ここではとりあえずファンタジーとリアリズム小説にかぎるとして、このふたつのジャンルの最近の収穫を報告しておこう。
 まずファンタジーのほうでは、なんといってもイギリスの作家フィリップ・プルマンのNorthern Lights(アメリカ版のタイトルはThe Golden Compass)だろう。この作品は一九九五年、イギリスでヤングアダルト向けのファンタジーとして出版され、児童書に与えられることになっているカーネギー賞とガーディアン賞の両賞を受賞したが、トルキンやエンデの作品のように大人の読者も魅了している。これは三部作の第一部で、第二部のThe Subtle Knifeも出版され、好評である。どちらもかなり分厚い本で、完成すれば、トルキンの『指輪物語』とほぼ同じ長さになると思われる。どちらかというとオーソドックスなファンタジーだが、着想と構想と構成がすぱらしく、物語の楽しさを十分に堪能させてくれることはまちがいない。まさにぺージ・ターナー(次々にぺージをめくってしまう)の一冊といっていいだろう。
 またアメリカのヤングアダルト向けの本の新しい流れというと、これまで児童書やヤングアダルトの世界で敬遠されてきた同性愛を扱った作品がやっと出始めたことだろうか。 一九九四年に、Am I Buie?:Coming Out from theSilence' Not the Only One:Lesbian & GayFiction for Teens という二冊の短編集が出版され、注目された。どちらもゲイ(英語ではホモセクシュアルとレズビアンの両方を指すことが多い)をテーマにしたもので、ヤングアダルトの棚だけでなく一般書の棚、あるいは大学の書店などでも平積みにしてあった(もっとも、この目で確かめたのは西海岸だけで、東海岸でどうだったのかはわからないが)これらの本は、赤裸々な性描写はないが、シリアスに、ときにユーモラスに同性愛の問題を扱っていて、それぞれの短編もよくまとまっている。
 しかしこの流れはもう少しまえからあって、その代表的な作家がフランチェスカ・リア・ブロックである。ここ数年、彼女の作品をたんねんに追っているので、少し詳しく紹介してみよう。
 ブロックは一九八九年にWeetzie Batという作品で、同性愛の問題をからめながらロサンゼルスに住む若者の姿をあざやかに描いた。主人公のウィーツィーは素敵なボーイフレンドをみつけるが、彼がゲイだということを知り、ふたりしていい男をさがしに街にでるところから物語は始まる。この作品は西海岸の若者のあいだで静かなブームを呼び、続編が四作出ることになる。そして最近、これら五作が合本の形になり、The Dangerous Angelsというタイトルで大手から出版されて一般の読者も獲得してべストセラーになった。けばけばしいロサンゼルスの街とファッション、そのなかで紡がれる様々な形の愛が数人の登場人物の視点から、ときにリアリスティックに、ときにファンタスティックに描かれており、映画化も検討中とのことである。また、ブロックは九六年にGirl Goddess#9という短編集を発表した。これはゲイを含めて、「少女の愛」をテーマにした九つの物語である。
 ブロックの作品では繰り返し若いゲイのカップルが描かれるが、その特徴は、彼らがなんら特別な存在としてではなく、ごく自然に、ごく普通に、こだわりなく描かれていることだろう。吉田秋生の『ラヴァーズ・キス』をそのまま西海岸に移してキッチュでパンクな装いをさせれば、こんな感じになるのかもしれない。ここにはいわゆる一般書に描かれるゲイとはかなり異質のゲイが描かれている。
 ヤングアダルトというジャンルはどこかで児童書の部分を、どこかで一般書の部分を引きずっているが、反面、若者の感性に非常に敏感な部分をしっかり持っている。そして若者の感性がとらえた時代に敏感に反応しながら、児童書からも一般書からも見落とされている部分をうまく受け止めることがある。
 ファンタジーとリアリズム小説のふたつの部分から、ヤングアダルト向けの作品がたまに、その枠をはみだし、境界を越えて、一般書というジャンルを切り崩していくことがある。快い驚きがそこにある。アメリカでは、おそらく、この傾向はますます強くなっていくのではないだろうか。
日本児童文学1998/9,10