ぼくどこからきたの

メイル,ピーター著
谷川 俊太郎 訳 河出書房 1974

           
         
         
         
         
         
         
         
    
 イギリス人のピーター・メールという男性が画期的な絵本を 書いた。小さい子どもに、赤ちゃんはどうして生まれるの?と 聞かれたら、あなたならどう答えますか?この絵本はその力強 い味方になってくれるに違いない。

 『ぼくどこからきたの?』は今から27年前(1973年)にイギリスで出版された。その途端に爆発的な売れ行きを見せ、翌年には日本で訳出されたほどだ。その人気の秘密はどこにあったのか。
 
 「サイモン、ニコラス、クリストファー、ジェーン、そして どこにもいる あかいかおした おやたちのために」
 若い時、何の照れもなくエッチなお喋りを楽しんだ人も、親になり子どもに性の話をする時、ためらわずにはおられない。そして、それは日本だけではなく、性に対してオープンな諸外国でも同じようだ。性に対する子ども達の問いかけに対し、親たちは赤い顔をして答えないで済むための準備は出来ているのだろうか。親として避けて通れない現実がそこにある。

       「これはみんな きみのはなし」
 子どもの時、自分が、どこから、どうして、どんなふうに来たのか不思議だった。そこで親に尋ねた。親は、コウノトリが運んできたとか、橋の下で拾ってきた、と言った。一瞬、本当かも知れないと思ったが、ニコニコしている親の表情を見て、すぐ嘘だと気付いた。橋の下で拾ったなんて、本当は言いたくはなかったのだろうが、今思うと、照れくさかったに違いない。しかし、他に言いようがなかったのだろう。昔はこれで済まされていた。それでも、それが本当でないことを、子どもは見抜くのである。そこには、親と子の間で何も言わなくても通じるものがあったように思う。何度も、同じ質問をしたが、結局返って来る答えは同じだった。にもかかわらず、そんな筈がないという確信だけはあったのだ。  
 人間は子どもの時から自分のルーツを知りたがる。そして、大人になっても、自分の辿って来た道を確かめながら生きて行こうとするのである。

     「それはみんな きみのためだったんだ」
 中学生、高校生になると、思春期や反抗期を迎える。親から頭ごなしに押し付けられることを、最も嫌う時期だろう。口喧嘩をして、「生んでくれって頼んだわけじゃない!」という台詞を吐いたことがある。一人で生まれて来たような顔をしていた。親の言うことが愛情とは受け取れない時期だ。しかし、自分が子どもを持って初めて、「みんな私のためだったんだ」と解る。私のために、どれほどの愛情を傾けてくれたのかと思うと、言葉に絶えない。
 一方、私は父親っ子だった。何かの度に目を細めて喜ぶ父の顔を、今でも思い出す。そんな顔を見ると私は幸せだった。私の言うことは何でも聞いてくれたし、私も父の言うことはよく聞いた。父を喜ばすことが好きだった。私も父の愛情に応えようとしていたのかもしれない。子どもは親からいっぱいの愛情を受けて生まれ、そして育っていく。それがどんな形の愛情にせよ、それをエネルギーにして、今度は自分の人生を生きることになるのである。

        「それは とても いいきもち」
 セックスは子どもを作るためだけに、あるのではない。それは、とてもいい気持ちなんだ。そして素敵なカンジになる。
 最近、小学校では、保健の時間に性教育の内容をかなり詳しく教えてくれるらしい。しかしその行為がなされる時の気持ちとか、「愛し合う」ということがどういうことなのかということには、触れていない。行為以前に大切にしたい心の部分は、大人の都合により飛ばされてしまう。それを説明することは、難しかったり、照れくさかったり、うまく言葉にできなかったりするからであろう。
 現実には、「それは とても いいきもち」とは、我が子に言えないのだが、ピーター・メール氏は、親たちが子どもに言えなかったことを書いてくれた。親たちは内心ヒヤヒヤしながらも、読み聞かせた後に、心のどこかでこの本に感謝し、ホッとしたに違いない。(「   」は本文より引用)(吉村はるみ
たんぽぽ17 2000/04
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