ぼくはきみのおにいさん

角田光代作

河出書房新社 1996

           
         
         
         
         
         
         
     
 夏休みの最初の日、六年生のアユコが塾を終えて出てきたところに、知らない男の子が待ち構えていた。人なつこい笑顔を浮かべながら話しかけてきて、コンビニでいろいろ買っておごってくれたあげく、突然「きみの兄貴だよ」という。一人っ子のアユコに兄がいたなんて話は聞いたことがない。ちょっとミステリアスで魅力的な始まりである。読者は、アユコ同様に不安を抱えたまま、いきなり物語の迷路に誘われる。この仕掛けは秀逸だ。
アユコが生まれてしばらくして、二人は今の両親のところに預けられ、それから二年もしないうちに、男の子だけ別の家に引き取られたのだと彼はいう。男の子の名はトオル。巧みな話術とキャラクターにひかれて、アユコは半信半疑のまま、彼の語る世界に次第に引き込まれていく。そこに、アユコの父親の不可解な行動が重なる。このあたりの展開はじつに見事で、アユコに寄り添いながら読者もまた不安感を増幅させられる。アユコはトオルに連れられて、知らない町へ幼いころに一緒に暮らしていたという家を探しに行く。 
家族の神話が揺らいできている中で、大人の世界の隠された物語に敏感に反応する今日の子どもたちの感受力を巧みにとらえ、作者は少年と少女のちょっと変わった淡い恋の物語をさわやかに描いてみせる。深く心にしみ込む好作品である。(野上暁 )
産経新聞 1996/11/15