ぼくたちもそこにいた

ハンス・ペーター・リヒター
上田真仁子訳/岩波書店

           
         
         
         
         
         
         
         
    
 何かの書評で『あのころはフリードヒがいた』『ぼくたちもそこにいた』『若い兵士のとき』の三部作を知った。興味を持ったのはこれらを読めばナチスのことやナチスによるユダヤ人迫害のことが分かるのではないかと思ったからである。しかし、実際に本を手にすると、なかなか読み進めなかった。
 今回自分が選んだ本ということで感想を書かなければならなくなった。やはり頭の中はまとまらず遅々として進まない。三部全部はとても手におえないので、第二部の『ぼくたちもそこにいた』についてだけでもなんとか考えをまとめられたらいいなと思って取り組んでいる。『ぼくたちもそこにいた』には、その時代の事実が書かれている。1933年8歳から1943年18歳までの「ぼくたち」のことが描かれている。「ぼくたちも」の「も」にひかれた。その時、ぼくたちも、そこにいて、書かれていることをしていた当事者たちであったということであろう。
 1933年から1943年までは、たったの10年間である。しかし、8歳から18歳の子どもの10年間というものは、著しい成長と発達を遂げる時期である。8歳の子どもはまだまだ大人の権威で行動させる事ができる。でも、18歳になれば自分で考え自分の判断で行動できる。ハインツ、ギュンター、僕が父親や教師を含め周りの大人たちからどの様な影響を受けていたのか。 
 1933年の頃のドイツの国内情勢に何かおかしいものを感じるギュンターの父親もいれば、生活のためにそして生きるために世の中の流れに沿っていくことを選んだぼくの父もいる。そして、まさに勢いある勢力の一翼を担って生きているハインツの父がいる。
 親は自分の子どもに生きる上でのいろいろな事に影響を与える。学校はその時の勢力に支配され、子どもはその学校に支配される。教師たちは大人だからそれぞれの父親のようにいろいろな考え方の人がいる。
 ぼくは茶色の開襟シャツが欲しくてたまらなかったが母は許してくれなかった。偶然訪ねて来た祖母が買ってくれた。ぼくはドイツ少年団に入りたっかたのだ。ギュンターはクラスで一人だけ茶色の開襟シャツを着てないことで、校長にわが校の恥といわれるが、下を向いて耐えている。ハインツは、ドイツ少年団で生き生きと活動していた。 
 しかし、大きなうねりの中では個人のことは抹殺される。寒くても防寒着を着られない、危篤の祖母の見舞いより寄付集めを強要される。また、理不尽な叱り方をされる。子どものプライドを粉々に くだくような罰し方をされる。子どもはそれを我慢する。
 ハインツの父は、総統によって輝かしい未来が訪れると考える。ギュンターの父は、ヒトラーは我々を戦争に引きずり込み、子どもたちに不幸をもたらすと考える。ぼくの父は、「アードルフはいいことをしてくれたんだよ。うちはよくなった。ヒトラーはユダヤ人問題じゃあ、へんな気まぐれをやっている。しかしまあ、そのうちにおさまるよ。」と話している。何か少しおかしいけれど、でも目の前の生活はよくなっているではないかと考えているのである。
 13, 4歳になると少しずつおかしい事に気づく。ギュンターやぼくが思いがけず巻き込まれたユダヤ人を襲った事件が、実は仕組まれた事であったことを知る。ハインツは父がユダヤ人の家や店のリストを作っているのを知っていた。父を守るため誰にも言わなかった。14歳になりヒトラー・ユーゲントに入団してからはますます嫌気がさす。周りは戦争に行って自分が華々しく活躍し、人を殺すことばかり考えている。ドイツが負けるということ自分の死もあることなど微塵も考えていない。
 17歳で志願兵になったハインツは、戦争はただ汚らしいだけのものである事を話す。ギュンターの父はぼくに「もうとっくに戦争とかヒトラーとかが問題じゃなくなってるんだ!この戦争に負けて見ろ。ドイツはどうなる。なくなるぞ。だから、勝たなくてはいかんのだ!」と、言う。
 17歳になったぼくとギュンターも志願兵となり、ハインツの部隊に入る。ぼくもギュンターもハインツもギュンターのお父さんのような気持ちで、つまりナチスや戦争に絶望しながらもドイツの未来のために志願兵になったのだろうか。しかし、戦場では相手に対して「あっ!ちょっと待って」とは言えない。あるのは生か死か。(林 嘉代子)
「たんぽぽ」16号1999/05/01