冒険者たち・ガンバと十五匹の仲間

斎藤惇夫 薮内正幸・絵
アリス館牧新社  1972

           
         
         
         
         
         
         
     
 『冒険者たち』は、七○年代に入り、他のファンタジーの作品群が、内面へ内面へと深化していくのとは反対に、冒険へのあこがれ、海のロマンを謳いあげた読みはじめると止まらない冒険活劇である。大航海時代のような海に乗り出すことが、即、冒険であった時代は、大過去になってしまっている現代にあって、大冒険はネズミに托して語られている。
 『冒険者たち』の前著『グリックの冒険』(一九七○年刊)においても作者は、冒険をテーマに作品を書いている。人間に飼われているしまりすのグリックは、鳩のピッポーとの出会いによって、自分の本当の「家」が北の森にあることを聞かされ、北へと旅立つことを決心する。途中、ドブネズミのガンバを助けたことから、冒険家ぐらし(「まあ、君にわかりやすくいえば、世界中どこでもおれたちのうちってわけさ」)を知り、動物園の檻から逃亡したのんのんとカップルになって苦しい旅を続けていく。のんのんは、苦しい旅を楽しいといい、「わたし毎日毎日、自分は生きているんだなって、そんなふうな感じがするの……。」と語る。冬になり、こごえながら雪の森に辿りつくところで物語は終る。グリックは、自由と「家」を得たのである。テーマとプロットのはっきりした読みやすい成功した作品になっている。
 『冒険者たち』の主人公ガンバは、グリックの出会った冒険家ガンバの青春時代(と思われる)である。台所の床下の貯蔵穴に暮らしていたガンバは、友人のマンプクに誘われてしぶしぶ船乗りネズミの年に一度の集まりに出て、いきがかりから、ネズミたちが滅亡をせまられている島へ、町ネズミのマンプク、港ネズミボーボと、ジャンプ、船乗りネズミ、ガクシャ、ヨイショ、カリック、イカサマ、テノール、バス、バレット、イダテン、シジン、アナホリ、島ネズミ忠太と、オイボレという十五匹の仲間と船出し、リーダーとしてイタチのノロイ一族と生死をかけた戦いをする。
 船乗りネズミ、ヨイショの語る「そりゃあ、町には町のよさがあるのかもしれねえ。しかし世の中は広いんだぜ。ネズミと生まれたからにゃ、海を見ずに帰るってこともねえさ。まだ世の中には、おめえたちの見たことがねえものがいろいろあらあ。ぞくぞくするような冒険、舌がとろけちまいそうなくい物、……(中略)……何てったって船乗りが一番よ。危ねえことは危ねえが、危ねえことにむかっていく時の気持ちの高ぶりなんざあ、口ではいえないね。おれは何度も死にそうになったぜ。あえて、死地に乗りこむことをくり返したといった方がいいな。」という冒険の醍醐味、はじめて海をみたガンバの興奮(「これも海か!」「これも全部海か!」)そしてイタチとの戦い、忠太の姉、潮路との恋、潮路の死と、ネズミの勝利を通じて、「みんながいなかったら今ごろ、ぼくはあいかわらず町の中で、ただ毎日毎日をのんびりすごしているネズミにしかすぎなかったんだろうと思います。」というガンバは、シジンのうたう「戦うこと / それが生命をほめたたえること / 戦い続けること / それが生命の証だ」を実践して、一丁前の冒険野郎になって物語は終る。仲間一匹一匹にはそれぞれの見せ場が用意され、また、戦いの場面での歌合戦、踊り合戦やガンバがオオミズナギドリにのって危機一髪のところにあらわれるクライマックスの物語性は、息もつかせず読者をひき入れる。読者をとにもかくにも海につれだし、理屈抜きに冒険にまきこむ。会話体の中で多用される感嘆符(!)とともに、次から次への展開に心を奪われる。また薮内正幸氏のさし絵が魅力を倍加させる。
 ところが、である。読後、その面白さの背後にある無思想性と意外な古さに気がつき、あこがれとか冒険とはこのようなものであるのかと再考を迫られる。冒険のための冒険、旅のための旅、自分の生存のためではない戦いに命をかけるのに、全く、くったくのない関わり方がなされている。結末の「さあゆこう仲間たちよ / うずまきさかまく大海原を / 残照輝く水平線のかなたへ / 聞こえるだろう ほら / あれくるう風の中に / 自由と愛のほめ歌が」の自由と愛という言葉に何ら実態がないことに愕然とする。マカロニ・ウエスタンや東映のヤクザ映画の場面が頭をかすめる。
 ともすれば、テーマ中心主義的で教育的配慮のいきすぎた作品が多い中で、面白いということではぬきんでながら、必然性のない冒険ということで切実に迫るものがない。
 見方をかえれば、不安にさいなまれ、未来に希望を持つことの困難な時代にあって、なお、あこがれをもち続け、冒険そのものに命をかけることのロマンを信じ続けるにはこうしたガンバのありよう以外には描きえないのかもしれない。
 動物ファンタジーは、動物の形を借りながら、人間そのものを描くものから生態をふまえてはいるが、人間を語るものになり、生態を研究して決してそれを逸脱しないものへと変化してきた。斎藤惇夫氏の手法は、生態を充分ふまえながら、プロットを展開させるためには、適当に妥協もするといった風になっている。また登場動物が全く人間との関係をもたないことが一つの特長になっていて、現代の作品であるにしては、われわれ人間の状況と隔絶したところに作品を成立させている。作品の中のシマリスやネズミを、われわれ人間と読めるかというと、それもむずかしい。いろいろと重層的な読み方ができるところにファンタジーという空想物語のおもしろさがあるとすれば、『冒険者たち』はストーリーの展開だけでよませる作品と分析していいかと思う。作品の奥行の浅さと一匹一匹の性格描写の一面性(アナホリは、穴をほり、シジンは歌をつくり、バレットは踊りの名手)は、読みやすさとつながる。その読みやすさのために、失っているものはあまりに多い。
 ファンタジーにおいて、その思想は奥深く秘められ、気づく読者には気づくような語られ方をすることがある。しかし、いかに読んでもガンバには、奥深いものがない。彼の無思想な行動は、世界中を住み家とするだけに、どこか危険きわまりないものを感じさせる。浪花節的でもある。戦い続けることが生きていることだという実感は、こわい。そこに戦いがあれば、生きている証のために、とにかく参加していきそうなガンバ、「カッコイイ!!」というだけですまされない作品である。大航海時代は、はっきりと大過去である。(三宅 興子

『日本児童文学100選』 日本児童文学別冊 偕成社 1979年1月15日
テキストファイル化 杉本恵三子