ブーメランの発想「ゲド戦記」

上野瞭

「日本児童文学」1977/04 
『われらの時代のピーター・パン』(上野瞭 晶文社 1978/12/20)

           
         
         
         
         
         
         
    
 片桐ユズルさんが『英語・まちがいのすすめ』(季節杜、一九七六)という本の中で、おもしろい話を書いている。言葉を習得するとはどういうふうにはじまるのか…ということを示した個所である。チーコというじぶんの娘さんの話を紹介する。
 たとえば、うちのチーコはちいさいとき、ひざ小僧ということぱをはじめて知ったとき、へ一え、これが小僧なの、といって、おかしくてたまらないようだった。彼女のいとこのケミちゃんは、鼻の頭になんかついているよ、といわれて、鼻の、といって鼻を片手でつまみ、頭、といってもう一方の手で頭をおさえて、鼻の頼ってどこなの、と、それはこまってしまった。どちらもまだ小学校へいっていないときだったから、4つか、5つだったろうか。チーコは、はな紙から、ハナカミサマという神様をでっちあげて、おかしがっていた。それから、肥後守の小刀をヒコノカニだと思っていた。それから、信州のネジリ湖に行ったときは、じっにおもしろかった、というとフォーク・シンガーのMさんは厳然と「ノジリ湖」ですと訂正した。肥後之蟹とかねじり湖は、自分の持っている知識を総動員して、世の中を整理して見ようという努力のあらわれだ。
 コルネイ・チェコフスキーの『二歳から五歳まで』(樹下館訳、理論杜)にも、こうした話はたくさん紹介されている。子どもが、じぶんの置かれている世界を、じぶんなりに納得しようとして、じぶんの言葉でそれをからめとろうとする実例である。わたしたちは、ロシア語を生活の言葉としていたいため、時にはそのおもしろさを「理つめ」で理解する場合もある。しかし、片桐さんの話にはその必要がない。ここには、わたしたちの生活の言葉があり、それで事物を知覚する場合の試行過程が、みごとにとらえられているからだ。たしか、サルトルが書いていたことがある。戦争の終結とは何か……という一文だった。「第二次世界大戦」は終ったという。それを「平和の到来」だという。しかし、戦争の終結とは、果して「戦後」なのか。新たな別の戦争に続く「戦前」のはじまりではないのか…。サルトルは、そこで、「平和」とは何かということを問いかげていた。ナチスが崩壊し、ヨーロッぱが「解放」された直後である。戦勝国も敗戦国も、「平和」とい三言葉を繰りかえす。それを信じて疑わない。その言葉を繰りかえすことが、そのまま「平和」の真の了解にむすびついているという錯覚 がある。言葉や主旨は、その通りだったかどうかわからない。はっきりしていることは、サルトルもまた、その状況論の中で、人間の言葉が、それの指示するものに対応して、価値たり働きなりを持つものであることを示唆していたことだ。片桐さんの紹介している「ケミちゃん」は、「鼻の頭」と聞いて、じぶんの鼻と頭に手を置いた。わたしたちは、「平和」という時、(あるいは、その言葉を聞いた時)じぶんの手をどこに置くのだろうか。言葉を知っていることを、その指示するものの理解と思いこんで、もはや、じぶんの手を動かすことさえ忘れているのではないのか。もしそうだとすれば、言葉は、ひしめく自動車の騒音とおなじである。
 片桐さんは、さらに書いている。

 ほんとうはチイコでなくて、えりかというすてきな名まえがあるんだけど、ふだん用には、チイコとみずから称しているんだね。ひとが名まえきいても、よう言わん、恥ずかしがりだというのは、ひとつには名まえはたいせつな自分の一部で、えたいのしれない他人にはおしえたくないのだな。先生に名まえ知られてると、あてられるとか。おまわりに名まえ知られたくないだろう。ブッシュマンだって、ロレンス・バン・デル・ポストほど仲よくなっても、自分たちの神話も神の名もおしえなかった。ユダヤ教でも、神の名をむやみに口に出しては罰があたるとか、エホバというのは仮の呼び方で、本名がヤーぺだということは最近になるまでわからなかったほどだ。
 チイコは、2つか3つのとき暗号を発明したよ。おかあさんといっしょにマーケットへ買いものにいくのがとてもすぎなんだ。なんかというとマーケットへ行きたがるのだけど、『マーケットをミーキッキと呼びかえることで、より冷静にマーケットについてしゃべれるようになったみたいだよ。

 右の二個所の引用は、「バラは丹後の節句の国」の、ほんの一部分である。片桐さんの本を紹介するつもりなら、もっと別の、たいせつな個所があるのかもしれない。しかし、ここで、ミス「チイコ」のエピソードを引いているのは、まったく「書評」とはなれた理由のためである。言葉が(あるいは、名前が)それの示す実体と関わって存在すること、事物の本質の指示語として使われていること……、こうした子どもの発想が、ル=グウィンの『影との戦い』(清水真砂子訳、岩波書店)の基本軸にすえられていることをいいたいためである。子どもの発想……といったが、もちろん、これは「子どもだけの」という意味ではない。現代の大人が、軽視するか無視するかで、言葉の力を半忘却状態に追いこんでいることを含めている。言葉は氾濫しているが、その多くが風化して死語となりつつある状況。それをあざやかに照射するのが、ミス「チイコ」の話であり、ル=グウィンの「ゲド戦記」だということである。

「では、あれは?」
「さあ。」
「俗にエボシグサと呼んでおるな。」オジオンは立ちどまって、銅をうった杖の先をその小さな雑草の近くにとめた。ゲドは間近にその草を見た。それから、乾いたさやをひとつむしり取った。オジオンは口をつぐんで、あとを続けない。ゲドはたまりかねてきいた。
「この草は何になるだ?」
「知らん。」
 ゲドはしばらくさやを手にして歩いていたが、やがて、ぽいと投げ捨てた。
「そなた、エボシグサの根や葉や花が四季の移り変わりにつれて、どう変わるか、知っておるかな?それをちゃんと心得て、一目見ただけでも、においをかいだだけでも、種を見ただけでも、すぐにこれがエボシグサかどうかがわかるようにならなくてはいかんぞ。そうなって初めて、その真の名を、その全存在を知ることがでぎるのだからな。用途などより大事なのはそちらのほうよ。そなたのように考えれば、では、つまるところ、そなたは何の役に立つ? このわしは? はてさて、ゴント山は何かけ役に立っておるかな? 海はどうだ?」オジオンはその先半マイルばかりも、そんな調子で問いつづけ、ようやく最後にひとこと言った。「聞こうというなら、静かにしていなくては。」

 これは、『影との戦い』の主人公ゲドが、「沈黙のオジオン」と呼ばれる魔法使いについて、その修業をはじめる個所である。少年ゲドが、事物の、人間にとっての有効性のみを問題にするのに反して、魔法使いは、事物の存在そのものの認識、そこにそうあることのふしぎさを感得させようとする。「まことの名前」ということで、存在するものの本質、あるいは全容を示そうとする。この作品には、言葉(あるいは、名前)と、それが根ざす実体に関する個所が繰りかえしでてくる。
 「沈黙のオジオン」のすすめでゲドが到着したローク島の学院。そこの「名付けの長」もまたこういう。

「よいか。海水の一滴一滴にいたるまで、その真の名を知らねば、海の長にはなれんのだぞ。」「たったひとつの名まえをつきとめるただそれだけのために、これまで何と多くのすぐれた魔法使いがその生涯をかけてきたことじゃろう。(中略)それでもまだ学ぶべぎ名はつぎつぎと増えて、尽きることを知らん。いや、この世が終わるまで尽きることはないじゃろう。」

 「ゲド戦記」は、もちろん認識論ではない。たとえ、作中の「魔法使い」を、「哲学者」という言葉に置きかえ、「まことの名」を事物の本質といいかえても、それで終わる物語ではない。強いていえば、一種の存在論である。しかし、認識論といい、存在論といい、それは、読後、この物語をふりかえっての抽象的な指摘である。わたしたちは、こうした感想を抱く前に、物語の壮大さに魅了される。前後したが、物語はつぎのように展開する。
 ゴント島、ゴント山の中腹、「十本のハンノキ」村に生まれたハイタカ。 かれは七歳の時、伯母の呪文を真似る。やがて、カルカド人の侵入がはじまる。ハイタカは、持てる力すべてをふりしぼって霧集めの呪文を唱える。おかげでカルカド人は撤退する。しかし、ハイタカは生ける屍のようになる。そんなかれを、ひとりの魔法使いがもとの状態にもどす。先に引用したエボシグサの個所の「沈黙のオジオン」である。オジオンは、ハイタカに「ゲド」という「まことの名」を与える。
 ある日、薬草摘みにでたゲドは、オスキルの少女に出会う。この少女は、後半、テレノンの宮殿で再会することになる魔女である。ゲドは、この少女にそそのかされて、オジオンの神聖文字を盗み読む。少女の要求にこたえて変身の術を試みようとする。変身は成功せず、ふいに暗黒の影の塊りを呼びだしてしまう。影は、オジオンの叫びで、その場は消え去る。そのあとが、ローク島である。ゲドは真の魔法使いとなるため、学院で学ぶ。しかし、おなじく魔法使いの修業にきているヒスイへの対抗意識から、死者の霊を呼びだそうとする。その結果、光の裂け目から、黒い影を呼びだしてしまう。ゲドは、暗黒の影に追われる身となる。ロー・トーニングの島で、ぺチパリの子アイオスの命を助けようとして、じぷんも死の国に引きずりこまれる。死の国から生の国に引きかえそうとする時、そこにもじぶんを待ち構えている影のいることに気づく。この場面は、夢の中の出来事のように簡潔に語られるが、圧巻である。ゲドは、ローク島へ逃げもどろうとして果せず、オスキルの島へいってしまう。影は、ここでもゲドを待ち構えている。さまざまな出来事のあと、ゲドはオジオンのもとへもどる。オジ オンは、ゲドにむかって、影から逃げることよりも追うことを教える。影に追われるゲドは、影を追うゲドとなる。かれは、親友のカラスノエンドウと共に、世界の果てにむかって旅立つ。東へ、東へ。やがて、影との出会いの時がくる。ゲドと影は同時に「ゲド!」と相手の名を呼びあい、一体化する……。
 これはきわめて大まかな「あらすじ」である。ぺンダーの島の竜との対決。テレノン宮殿での太古の石との出会い。あるいは、カルカド帝国の元王子や王女との出会い。そうした物語の肉となる部分は欠落している。しかし、この骨組の紹介だけでも、作品の壮大さはわかるのではないだろうか。魔法と冒険と航海の息づいている時代。この架空の状況設定は、「英雄古譚」的であり、「叙事詩」的発想に満ちている。わたしたちは、ホメロスとは異質の、そのくせどこかそれを想起させる『オデュッセィア』の世界に連れこまれる。地図で見慣れた世界は遠く退き、かわりに、世界のはじまりの時代はかくあったであろうと思われるそんな姿で、わたしたちの前にあらわれる。これは、ルース・ロビンスの描く「アースシーの世界」図のせいもあるのだろう。ありえない無数の島が、また海域の図が、たしかな空想の世界をつくる。こうした「もうひとつの世界」の構図が、魔法使いの遍歴譚のリアリティを支える。それと同時に、冒頭に記した半仮死的言語状況の中に「言葉の蘇生」を訴えるものとなる。
 いうまでもなく、この物語は、人間の、自己存在の確認を中心にすえている。それが不気味な「影」との戦いである。ゲドが、影から逃亡をはかる前半は、まさしく「死」に怯える人間の物語である。ゲドが反対に影を追いつめる後半は、人間の、「死」を自己の生存条件として自覚する過程である。もちろん、影は、人生の暗黒の側面を象徴し、もろもろの悪の集約体として見ることもできる。しかし、それが「光」(生)に対立する限りにおいて、希望や生命や無垢や力の消滅と否定を意味する点で、「死」につながる。ゲドがついに、「影」との一体化をなしえた時、ル=グウィンはこう記す。

 ゲドは勝ちも負けもしなかった。自分の死の影に自分の名を付し、己を全きものとしたのである。すぺてをひっくるめて、自分自身の本当の姿を知る者は自分以外のどんな力にも利用されたり支配されたりすることはない。彼はそのような人間になったのである。

 ソクラテスは、人間の「無知」の「知」の自覚を説いたが、ル=グウィンは、実存主義哲学者のように、「死」の自覚を人間の生の自覚としてとらえる。光に満ちた生命体の中に、そのまま暗黒の世界があることを示す。人は、不正義となりうるし、また無意味であり消滅する瞬時の存在である故に、正義を志し、世界に意味を与え、現存の時間の充実をはかる。こうした人間論は、論としては自明の話かもしれない。しかし、ル=グウィンのすばらしさは、その一片の存在論的定義に、ローク島の魔法使いのように、姿形を与え、血と肉を分かち、そうした定義さえ後に退くような、壮大かつ魅力ある可視的世界をつくりだしたことである。これは子どもにとって難解な話だろうか。もし、そうだとする意見があるなら、つぎの子どもの詩を読んでほしい。

かげ

ゆうがた おかあさんといちばへいった
かげがふたつできた
ぼくは おかあさんのかげだけ
ふまないであるいた
だって おかあさんがだいじだから
かげまでふまないんだ

七歳 はすだ ひとし

 灰谷健次郎・岸本進一編、児童詩画集『すっぽんぽん』(童詩社、一九七六)の中の一篇である。大人であるわたしは、「ゲド戦記」を、さまざまな「意味づけ」の中で読む。しかし、子どもは、直感的に「影」を伴う生命体を見ている。影を踏めば、母親を踏むことになるだろうという発想。これをアニミズムとして片づけるところからは、「ゲド戦記」は生まれてこないだろう。奥田継夫もまた、この子どものように影を見たから、二篇の影の物語『かげぼうしがきえるとき』(大日本図書)と『影ぼうしはどこへいった』(すばる書房)を書いたのだろう。
 ル=グウィンは、このあと「ゲド戦記」の第二部「こわれた腕環」を書く。物語はカルカド帝国の神殿に舞台を移す。ゲドは、元王女からゆずり受けた腕環の半分を、神殿の地下にひろがる迷路の世界に求めようとする。しかし、第一部と違って、ここではアルハと呼ばれるひとりの娘の生きざまが中心になる。かりに「ゲド戦記」の第一部を、ゲドを介して展開する個人の「影」の自覚過程とするなら、第二部は、人間世界を底から支配する「影の世界」の物語ということになろう。ひとりの娘が、生きながら死者であることから、はじめて「生」の意味を知る話……そういえるかもしれない。しかし、こんなふうに要約してゑても、どこか隙間風が走る。これは、第一部の空想世界が、あまりにも壮大な構想をとっていたせいかもしれない。それとも、そもそも暗黒の地下道は、うそさむい風の吹きぬけるところであるからかもしれない。
 わたしは「ゲド戦記」について、気易く、「暗黒」だとか「死」の自覚だとかいう言葉を使った。その言葉が、あたかも何かを具体的に指示しているように書きつけた。あるいはその言葉が、ル=グウィンの意図の一端を指していたのかもしれない。しかし、「死」という時、わたしはほんとうに、その言葉の指示するものに手を置いているのだろうか。アラン・ドロンの主演する映画『ブーメランのように』は、ある日、突然、じぶんの過去とむきあわねばならなくなった人間の物語だった。その映画の中で、アラン・ドロン扮する実業家は、じぶんの生活を棒にふった。いや、その生命をさえ、フランスとイタリアの国境でおとす破目になった。わたしもまた、じぶんの投げた言葉がほんとうにひとつの実体となって舞いもどってくる日に出会うに違いない。その時、わたしは、ゲドのように、じぶんの名を叫んで、それと一体化するのだろうか。それとも、アラン・ドロンのょうに必死の逃亡をはかるのか。こういえば、まるでわたしが二枚目のように聞こえるのだが、わたしだって、鏡のひとつくらいは持っているのである。