ふしぎなトーチの旅

ジル・ペイトン・ウォルシュ

岡本浜江訳 国土社 1988

           
         
         
         
         
         
         
         
     
 『夏の終わりに』『海鳴りの丘』『死の鐘はもうならない』などで強烈な印象を受けたジル・ペイトン・ウォルシュの最新作というので、一も二もなく本書に飛びついた。だが、本書はかなりかってが違った。
 題名のトーチとはオリンピックの聖火を運ぶトーチである。舞台は滅びた現代を「大昔」とよぶ未来社会だが、生活様式は古代に逆もどりしている。カルと結婚するためオリンピアに住む老人に会いにいった十三歳のディオは、瀕死の老人からトーチの番を任される。火をともしたトーチをかかげて、ディオはトーチを必要とする聖なる競技を求めて旅に出る。一緒に旅する仲間は、同じ村のカル、キャシー、ペリ、ニコに、走者ニカスロンことフィリップだ。海神ポセイドンに生けにえをささげる島の競技や砂漠の民トワーグの競技など、いく先々でトーチは消えてしまいディオたちの旅は果てしなく続く。
 様々な土地の競技を追っていく、平坦な筋かなと思うとそうではない。筋の展開に大きな役割を果たすのは、フィリップとトーチの二つである。フィリップは走者として勝つことだけを考え、競技には必ず参加する。フィリップが勝てなかったのは、薬を飲まされた走者に負けた、生にえをささげる島の競技だけである。見事な走りっぷりが災いして、フィリップはさらわれて競争奴隷にされてしまう。奴隷にされたフィリップを救うため、トーチが消えるのもかまわずディオたちはプロバンスの競技場に向かう。その競技場で、フィリップは負けろといわれた試合に勝ってしまう。ゴールした直後、フィリップはカルに渡されたナイフで膝の腱を切る。物語はフィリップによって冒険小説的高まりを見せている。
 トーチは、ディオたちが知らないうちについたり消えたりする。消えるのはほとんど不正な競技が行われている場合なのだが、つくほうは分からない。トーチが消えてしまうと旅の目的も消えてしまったようでディオたちは不安になる。トーチがつくのは、沈む小舟でフィリップを仲間だといったときや、語り部の話を聞いていたときや、砂漠でアロエの花を踏まないようにまわり道したときなどである。いつつくのか、なぜつくのかーートーチの謎はディオたちの疑問のみならず読者のそれともなり、疑問は明かされぬまま読者は物語の最後まで引っぱっていかれる。
 トーチがいつつくのかは分からないが、トーチの火は聖なる競技の象徴であるとともに友だちを思う心の火をも表す。だからこそ、フィリップの心も含め仲間の心が完全にひとつに解け合った物語の最後にトーチがついたのではないだろうか。そして私は、トーチの旅はこの岬が終点でディオたちはここでトーチの火を守るのだと思うがどうだろうか。
 印象深かったのは、トワーグ族の王さまだ。王さまは競技に負けて殺される運命にある自分の息子をディオたちの手にたくしてひそかに逃がす。子を思う親の気持ちに負けた王さまがあわれである。
 さて最初に本書は今までのペイトン・ウォルシュの作品とかってが違うと書いたが、それは次の点である。まずこの作品は彼女にしては珍しくファンタジーなのだが、未来社会というその舞台がもうひとつぴんとこない。「大昔」とよばれる現代が滅びた原因がはっきりしないので、古代に逆もどりしている未来に素直にとけこめないのだ。また、ペイトン・ウォルシュの作品といえば主人公の内面を舞台の情景もからめてじっくりと描くのが特徴だが、本書は登場人物が多いだけにそれが薄められてしまっている。カルの一人称で書かれているのに、トーチの番人でありカルの結婚相手に決まってもいたディオの気持ちがあまり伝わってこないのはもどかしい。仲間ということと旅という形式をとっているので仕方がないのだろう。そのかわり、競技が行われるそれぞれの土地の描写やエピソードの面白さ、テーマである仲間を思う心を象徴するトーチの使い方などさすがである。
 ところで、現代のオリンピックに本書のトーチを持ちこんだらトーチは燃えつづけるだろうか。はなはだ疑問だ。今年行われたソウルオリンピックでは、ドーピングによるベン・ジョンソンの金メダル失格があったし、中国では金メダル獲得に血道をあげる国の姿勢に批判の声があがっているという。トーチが消えないように努力したいものである。本書は現代のオリンピックに警鐘を鳴らしてもいるのである。(森恵子)
図書新聞 1989年2月4日