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児童文学研究そのものの歴史が長くない上に、フランスの児童文学研究者となると、その数は誠に微々たるもので、いまだにフランスの児童文学通史も邦訳されたことがない。僅かにポール・アザールの『本、子ども、大人』(フラマリオン、一九三二年)が、矢崎源九郎、横山正夫両氏によって、一九五七年に紹介されたのみである。アザールのこの名著は、フランス的エスプリに満ち、楽しく読ませながらも、その底に人間性、民族性への深い洞察を潜ませている。これは通史的児童文学史というよりは、児童文学を軸にしての民族文化論、あるいは児童文学についての啓蒙書といった趣きをもっている。 それにこの本はフランスの児童文学を扱ってはいるが、フランスの児童文学のみというわけではなく、ロビンソン・クルーソーも、ガリヴァーも、ドン・キホーテも、イギリスの子守唄も、アメリカの図書館も、アンデルセンも、グリムも、アリスも、ピノキオも同じ射程に入っており、これらの占めるページ数もかなりのものである。アザールにはフランス知識人の目から見た児童文学の見取図を示そうという意図が強かったからである。 この本の中心命題の一つは、第三章に置かれている「南国に対する北国の優越性について」で展開される、ラテン民族と、アングロ・サクソンの子ども観の相異にある。これはスタール夫人の『ドイツ論』の第一巻第二節「文学と芸術について」の第一章「なぜフランス人はドイツ文学を正当に評価しないのか」に影響を受けていると思われる。スタール夫人の『ドイツ論』は、当時のフランス人のドイツ文学に対する認識の乏しさを指摘し、フランスに新しい文学思潮、ロマン主義を導入したことで高く評価されている。特にこの章では、古典的南方文学と対比して、北方文学がいかにロマンティックな要素を多く持っているかを論じてフランス人に新鮮な驚きを与えた。アザールはこれをふまえて、児童文学の分野での北方文学の優秀性を述べ、北方文学と南方文学の質の違いをその民族の想像力の質の違いと、少年時代への認識の違いに由来していると述べている。「北国では想像力は内面的なものであり、南国よりも微妙なニュアンスに富んでいる(略)ラテン系の諸民族となると、想像力は北国よりもはるかに外向性を帯びており、物質的、造形的形で現わされる習慣がある。つまり想像力までが理 性に屈服しているのである」という論評は説得力がある。一方、ラテン民族が少年時代への認識に欠けていることについては、次のように述べている少年時代という幸多い島、子どもたちの幸せが保護される島、子ども自らの掟によって永く繁栄する共和国、恵まれた特権を有する階級、少年時代というのはこういうものではないだろうか。ところがラテン民族は少年時代を決してそういうふうには考えないのだ。(略)ラテン民族にとっては、子どもたちは未来の大人にすぎないのだが、それに反して北方民族は、おとなはかつて子どもだったという真実、つまり子どもはいまに大人になるという真実よりもはるかに正しい真実をよくわきまえているのだ」と述べている。この論評の鮮やかさが、イギリスやドイツに較べて、目ぼしい児童文学作品の乏しいフランスの現状とあいまって、日本の読者に圧倒的支配力を持ち、フランスの児童文学紹介にブレーキがかかったのを見のがすわけにはいかない。 確かに、フランス人の血の中には、アザールのいうラテン的気質が色濃くあり、そこから生まれる文学にも理性の勝った、幾何学的造形精神が優位を占める面は否定しがたくある。子どもっぽいものや、情緒にながされた感性は軽蔑される。しかし、フランス精神には明晰や節度を尊ぶ一面と同時に、野放図で、猥雑な哄笑をよび起こすガリヤ的気質も大きく作用しているのだ。フランス文学に、ラブレーのルネッサンス的博学とガリヤ的饒舌、荒唐無稽ともいえる奇怪な幻想や混沌や誇張の系譜があるように、フランスの児童文学にも、口承文学に続いて、フェヌロンの華麗なイメージに満ちた『テレマックの冒険』を経、奇想天外なロドルフ・テプファや、クリストフの絵本を通り、現代のルイ・ペルゴーにつながるガリヤ的なものが脈々と絶えずにある。アザールの「本、子ども、大人』でこれらが全く採りあげられなかったために、フランス児童文学の中のガリヤ的側面が紹介されずに、一面的に受けとられているのは残念なことである。『本、子ども、大人』が名著であることを認めつつ、また、そこに書かれていることの正当性を評価しながらも、アザールとは違った観点から、フランスの児童文 学を照射したものを紹介する必要があると思う。 フランスの児童文学史を扱ったもので、読む価値があり、現在も手に入れやすいものには、例えば次のようなものがある。 ジャン・ド・トリゴン『フランス児童文学史−−がちょうおばさんから象のババールまで−−』(一九五〇年刊) イザベル・ジャン『児童文学史』(一九七三年刊) フランソワ・カラデック『フランス児童文学史』(一九七七刊) これらのうちのどれかを翻訳したいと思って読み較べたが、この中ではイザベル・ジャンのものは図書館員の書いたエッセイという趣で、実際に子どもに本を手渡す立場からの子ども本の批評という印象が強い。これは先にはあげなかったが、ジュヌヴィエーヴ・パットの『好きに読ませなさい』などにも感じられる。紹介するならば、児童文学とは何かという理念からはじめて、その発生や展開を、作品の生まれる社会的土壌にまでふみこんで考察したものにしたいと思って、これらは除外した。トリゴンの本は偏りのない、正当的な児童文学史だし、出版の年代は他の二書より少し古いが、副題にもあるように、二十世紀の絵本『タンタン』や『ババール』までもとりあげている。ただ二十世紀に入ってからのものはたいへん手薄な印象を受ける。その上これは彼の資質によるのだろうが、偏りなく全ての作品に当たろうとするためか、色彩に乏しく、平板で、読みものとしての面白さに欠ける。そんなわけで、一番難物で、一番厄介そうなカラデックのものにとりくむことにした。この本は現在研究会で輪読中だが、遠くない将来完訳にして紹介したいと思っている。今回はその中の第九章、ジュール・ ヴェルヌを試訳してみたものを載せる。 その前にカラデックの『フランス児童文学史』や、カラデック自身について凡その輪郭を知るために、この本に記載されている紹介文を引用して解説しておこう。 「青少年や子どものための文学というものがあるだろうか。それははたして文学なのだろうか、それとも単によみものなのだろうか。しからばその歴史を書くということは可能だろうか」 ここには児童文学の根幹的命題がある。即ち、対象となる読者を年令というファクターで区切った文学などというものが想定できるかという命題である。殊に、子どもは未成熟な大人であり、大人が教え導いてやらなければならないと考えている人の多いフランスのような所では、そうした意識で未熟な読者に向かって書くならば、当然、未熟な文学しかありえないということになる。カラデックは、児童文学にたずさわる人が自分たちの幻想で勝手に文学と名づけているものを殆ど無視して、むしろ子どもたちが自らたのしんで来たものの総体を児童文学とする。ここでは、絵本も、まんがも、新聞も、雑誌も、教科書も、子どもがかかわって来たものは、文学という名にとらわれずに全てとりあげられることになる。そうできるためには、子どもが何を本当に楽しみ、何をうさんくさいと感じるか、子どものもっている鋭敏な感性を信頼していることが必要である。大人が子どもにむかってすすめる、義務的な読書は、子どもにとっては嫌悪の対象としかならない。子どもの本がつまらないものになる傾向が多いのは、カラデックの辛辣な解釈では、作者と読者である子どもの間に、編集者、出版者、本屋 、図書館員、教師、親などの大人が介在していて、子どもの本はそれらの検閲を通らなければならないからだ、ということになる。 「子どものための文学とはなにかを理解しようとしてまず驚くのは、この文学ということばが逃げ口上にしかすぎないということである。たいていの場合それは小さいサイズの特別の人たちの寸法にあわせて作られた子どもの本でしかない。 この文学は現存する中でもっとも保守的な本である。子どもの本の特質のひとつは、時流にあわせたスタイルで書かれるところにある。たとえば一九世紀には後期ロマン主義の感傷過多の時代に応じた気取ったスタイルで、今世紀にはフロイド風にアレンジした後期シュールレアリスムの無菌化された幻覚といったスタイルで。」 カラデックのこうした児童文学についての概観は、後にあげる目次でわかるように、まず第一章でとりあげられる。第二章が文学の誕生の章である。児童文学の成立を一九世紀の近代市民社会形成以後ととらえるのは、一般的見方であるが、それ以前にも当然子どもは存在していたわけで、彼らは何をたのしんでいたかという、児童文学前史が展開されるのがこの章である。 「一七世紀以前には、フランスでは児童文学については何も知られていなかった。しかしながらなかったわけではない。それは後にシャルル・ペローが文字による文化の中に導き入れた豊かな口承文学や、子どもがたのしんだ遊び、民族の共通の遺産ともなっているかぞえ唄、わらべ唄、ことばあそびなどである」 ここにはまた、これ迄類書でとりあげられたことのない、<行 商 人 の 文学 >と呼ばれた廉価版の冊子や、<青色叢書>と呼ばれた中世文学の大衆向焼き直し本や、<エピナルの一枚絵>に関する貴重な言及もある。 第三章では児童文学の古典としてラ・フォンテーヌの『寓話』、ラシーヌがサン・シール学院の女生徒たちのために書いた劇『エステル』や『アタリー』、そしてフェヌロンがルイ一四世の孫ブルゴーニュ公に語った『喜びの島』や『テレマックの冒険』について該博な知識が披露される。中でもシャルル・ペローをはじめとして当時流行となった妖精物語についての論は圧巻である。 またこの章の終わりには、フランスの子どもたちに大きな影響を及ぼした外国の作家と作品が彼一流の見方で概観されている。スペインからは、ミゲル・セルヴァンテスの『ドン・キホーテ』、イギリスではダニエル・デフォの『ロビンソン・クルーソー』と、ジョナサン・スゥイフトの『ガリバー旅行記』、それにジョン・ニューベリーの聖書と太陽社、ルイス・キャロルの『ふしぎの国のアリス』(フランスの一般の大人のアリスへの拒否反応が垣間見られて面白い)、時代は下ってジェームス・マシュ・バリの『ケンジントン公園のピーター・パン』と、J・R・R・トールキンの『ホビットの冒険』である。ドイツからはグリム兄弟の『子どもと家庭のメルヘン』、アーヒム・フォン・アルムニの『少年の魔法の角笛』デンマークからはハンス・クリスチャン・アンデルセンの『童話集』、イタリアからはコッロディの『ピノキオの冒険』と、現代の傑作ディノ・ブザッチの『クマたちの名高きシチリア襲来』、そしてスェーデンからセルマ・ラーゲルレーフの『ニールス・ホルゲルッソンのふしぎな旅』。これら外国の古典の選択は納得のいくものであるし、それをフランス人がどう受け取ったかと いう観点から書かれているのが面白い。 ただ、ダニエル・デフォの『ロビンソン・クルーソー』に関しては、カラデックはこれを最初の近代小説と位置付けているので、そのために一章をあてている。第四章「エミールの子どもたち−ダニエル・デフォ、あるいは小説の創造−」がそれである。 「児童文学の最初の古典は、文字による文化を子どもの手に渡すことをためらっているように見える。本当の子どもの本は、メルキュール・ギャランの紳士淑女の読者たちのためにサロンで生まれた子どもっぽい妖精物語ではなくて、むしろ子どもたちによってとりこまれた大人のための本なのではないかどうかを自問してみる必要がある」 妖精物語の流行は「ためらいながら」も、一七世紀末から子どもにその楽しみをわかち、ファンタジーへの流れを形成し、一方で大人に向けて書かれた『ガリバー旅行記』や『ロビンソン・クルーソー』が作者の予想もしなかったことだが、たちどころに子どもたちに迎え入れられるところとなり、別の流れを作って行ったとみていいだろう。 第五章で書かれるアルノー・ベルカン、ステファニー・ド・ジャンリス、ジャン・ニコラ・ブイイなどは、ルソーの『エミール』に触発されて、はじめから子どもに向けて書いた人たちだが、カラデックはこの章に「衰退期」という題をつけている。子どもたちはアザールのいうように「大人があいそ笑いを浮かべてさし出す甘ったるい本にはあきあきし、むしろ大人にとっても苦い食物でしかないように見えるものの中に、自分たちの糧になるものを見付け出していた」のだ。 このようなすべり出しでカラデックの『フランス児童文学史』では、狐物語から現代のまんがに至る迄、子どもが楽しんできたものの総体をとりあげる。そしてその場合、これを決してマージナルな文学とはみない。彼の児童文学以外の仕事にむけるのと同じ関心を子どものたのしんで来たものにも払っている。 「この『フランス児童文学文学史』は児童文学の発展史である。児童文学を形成し、進展させるのに寄与したものは何か、新しい方法は何であるかを示し、最終的には、子どものための出版の出現や、まんがが読書の習慣にもたらした変革についても述べている。この本は思いがけない驚きをひきおこし、偏見をくつがえしてくれるが、それはこの本が作品の羅列に終わらず、むしろそれを避けて、児童文学はまず風俗の歴史であり、子どもの読んできたものの歴史であることを示しているからである。この本でこれ迄批評家たちがマージナルな文学とみて口をつぐんでとりあげようとしないで来た膨大な作品群の変遷を辿ることができる。カラデックにとってはマージナルな文学というものも、価値の高い文学、低い文学という区別もない。彼は『レイモン・ルーセルの生涯』にも、ジャン・ノアンと共著の『ペトマーヌの生涯』にも、『ロートレアモン伯こと、イシドール・デュカスの生涯』にも『ファルスと聖劇』の中でとりあげている黙契にも同じ関心を払っている。彼は『アフォンス・アレ全集』、『論理はすべてに』を出版し、テプファの絵本、『アルフレッド・ジャリのブルターニュでの青春時代 』『クリストフの生涯』『フランス俗語大衆語辞典』『パスティシュの宝庫』をもてがけ、ノエル・アルノーとともに『ファルス、いたずら、欺瞞の百科』を編集している。 いずれ出す翻訳の予告のために、この本の目次をあげておこう。これ迄児童文学で言及されたこともなかった作家の名を目にして、フランス児童文学に関して我々がいかに乏しい情報しか持っていないかに改めて驚かされるだろう。 第一章 文学か、読みものか 文学か、読みものか どんな文学か 本の尊厳 若いさかり 児童文学の古典 検閲 絵 第二章 文学の誕生 文学の誕生 文献に残る伝承と、口碑の伝承 きまり文句、かぞえ唄、わらべ唄 狐物語 第三章 フランス児童文学の古典 フランス児童文学の古典 ジャン・ド・ラフォンテーヌ その他の寓話作家たち ジャン・ラシーヌと子どものための劇 フェヌロン 妖精ばやり シャルル・ペロー 千夜一夜物語 妖精の後裔 近隣諸国の昔話とおとぎ話 第五章 衰退期 アルノー・ベルカン ステファニー・ド・ジャンリス ジャン・ニコラ・ブイイ 第六章 新しい物語作家と小説家 ピエール・ジュール・エッツエル シャルル・ノディエ ルイ・デノワイエ アレクサンドル・デュマ インディアンの奇襲 第七章 絵本 ロドルフ・テプフア ピエール・レブリフェ(もじゃもじゃペーター)ルイ・ラティスボンヌ 第八章 セギュール夫人 セギュール夫人 ゼナイド・フロリオ 第九章 ジュール・ヴェルヌと後継者たち ジュール・ヴェルヌ ジュール・ヴェルヌ著作目録 アンドレ・ローリー ルイ・ブスナール ポール・ディヴォワ 第十章 その他の物語作家と小説家 ジュール・サンドー アルフォンス・ドーデー アルフレッド・アソラン G・ブリュノ エクトール・マロ 第十一章 世紀の幕合 クリストフ アルフレッド・ジャリ 第十二章 二十世紀の絵本 ルイ・フォルトン アラン・サン・トガン エルジェ ペイヨー ポール・フォシェ ジャン、ローラン・ド・ブリュノフ 第十三章 二十世紀の物語作家と詩人 ルイ・ペルコー マルセル・エイメ ロベール・デスノス アントワーヌドサン=テグジュペリ ウージェーヌ・イヨネスコ 年表、参考文献、索引 |