フランスの遺言書

アンドレイ・マキーヌ作
星埜守之訳/水声社刊

           
         
         
         
         
         
         
    
 子どもの頃、「祖父母の昔の話」を聞いて、ぼんやりと突拍子もない想像をした経験はありませんか?『フランスの遺言書』の主人公、ロシア人のアレクセイ少年にとって、夏ごとに会うフランス人の祖母が語る「美しい時代のフランス」は、そうした突拍子もない「お話」でした。「増水のため舟で議会に向かうパリの議員」の当時の写真を見、祖母の話を聞くうちに、「水の中からアトランティスのように」絢燗豪華な夢の国が浮かびあがるのが見えたのです。
 でも成長するにつれ、パリを訪れた逸話から親しみを抱いていたロシア皇帝が、共産主義の学校で教わる「悪人」、ロシア革命によって殺されたその人であることを知り、少年は混乱します。祖母のフランス語の物語に親しんで育ち、ロシアとフランスという二つの世界に生きるようになったがために、周囲から浮いた存在になり、十五歳で初めて恋した少女に、陰で「変なフランス人」と嘲られるに至って、少年は祖母に「フランスを憎む」と言ってやる、と決心します。昔のように酒落たフランス菓子を出されたら、その時に…と。
 けれども予告せずに訪れたその日、少年は、祖母の普段の食事の貧しさや、異国で老いる彼女にとって、孫たちと過ごす夏の数週間だけが母国語で語れる日々だったことを、初めて大人の目で見てとったのです。そして同じ年、少年は祖母の美しさの秘密にも気づきます。それは、言葉と物語の力によって、「今、ここ」ではない場所、かって経験したさまざまな瞬間(戦乱の中で味わった数々の恐怖も含まれます)をわが身に引き寄せ、再び生き直す能力によるものだったのです。そして祖母の驚くべき人生の全貌が明らかになります…。
 過去や「夢の国」を描く物語は数多くありますが、この物語が心を打つのは、「どこかを夢見る」ことの重い代償と、夢や歴史を心の中に根づかせ自らのものとするまでに子どもが辿る、時にはつらい道筋を、「夢」によってもたらされる恩寵のような喜び、個人の人生を超えて受け継がれてゆく夢というものの「永遠の相」とともに、鮮やかに描き出したところです。それは、自分のアイデンティティを常に問いながら生きたからこそ少年の中に根づいた深い認識なのですが、この本を読むと、「夢見る」ということ、「だれかの人生を知り、そのいくばくかを受け継ぐ」ということは、本来こういう事ではなかったか、と考えさせられます。
 二十代でソ連を離れたアレクセイは故郷と音信不通になり、祖母の生死すら知らぬまま、幼い頃の憧れと裏腹に厳しい顔を見せるパリの街で、墓地に寝泊りする浮浪者同然の境遇に陥ります。けれど病を得てよろめきながら歩いていたある夜、通りの壁にはめ込まれたプレートを見た途端、夢は蘇りました…そこには「ここまで増水・1910年」と記されていたのです。窓からパリを埋めつくす水を見つめていた少女、幼かった祖母の姿。水から浮かび上がる「夢の」フランス…。その場所から、アレクセイ(即ち著者)の、「フランス語で書くロシア人作家」への道が始まったのでした。(上村令)

徳間書店「子どもの本だより」2002.3-4
東新橋発読書案内「夢見る力」
テキストファイル化富田真珠子