不思議の国のアリス

ルイス・キャロル
福島正美:訳 角川文庫

           
         
         
         
         
         
         
    
 アリスってどんなコでしょう? テニエルの挿絵の印象もかなり入ってしまっていると思いますが、ちょっと自慢屋で短気、おしゃまで小生意気ってところかな? かわいくもあるけれど、一日中お相手するにはチト疲れる子ども。少女好きで写真好きでもあったからか、キャロルは子どもをよく観察しています。
 アリスがたどり着いたワンダーランド。ここでナンセンスが展開されるわけです。それは、論理的には成立するみたいに思えてしまうけれど、日常で貫徹すると妙なことになるたぐいのもの。チェシャ猫は笑う猫。つまり、「笑う」と「猫」で構成されている。よって、チェシャ猫が消える場合どちらから先に消えてもかまわない。三月兎に「もっと飲め」と言われて、「まだちっとも飲んでいないから、もっとは飲めない」とアリスが答えると、帽子屋が「もっと少なくは飲めないという意味だろ」と言う。などがそう。
 ワンダーランドとは、論理が支配する世界なんです。登場人物・動物たちがエキセントリックに見える原因もここにあります。彼らはそれぞれの論理を決して曲げることがないのです。数学者キャロルはそんな世界にアリスを置く。
 物語の最後で、アリスが去った後お姉さんが目を閉じて、アリスの聞かせてくれたワンダーランドを思い浮かべるシーンがあります。目を開ければ退屈な現実世界が広がっていることを彼女はもう知っています。つまり退屈な現実世界とは違う世界を生きることのできる存在がアリスのような子どもなんだとキャロルは言いたげです。これはノスタルジックな子ども観です。が、おもしろいことに、そのキャロルが用意した空間は、ピュアな子どもが幸せに生きる夢のような世界とはほど遠いものです。アリスは大きくなりすぎたり小さくなりすぎたり、首が伸びて蛇と思われたりと、安定した自分を得ることがなかなかできません。加えて、登場人物・動物たちはそれぞれ勝手な論理をアリスに押しつけてきます。確かに退屈はしませんが、これは違う世界というよりも、日常で子どもが置かれている環境に近いものです。大人を基準に作られた家具やポストや車。レストランでの子ども椅子の屈辱。一方、フィギアを使って小さな物を操る大きな「私」。子どもには訳のわからない説教や指示をする大人たち。そうした子どもの側から見える現実世界と、そこで子どもが抱いている不満や不安を、ワンダーランドは明示化し、解放したと言えるかもしれません。
 キャロル自身は愛するアリス・リデルを永遠に保存するためにこの装置(物語)を考え出したのでしょうが、結果的に多くの子どもの支持を集めた一因はそこにあると思います。
徳間書店「子どもの本だより」2002.05/06(hico)