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何年か前に『ジョー・ヒル』という映画を見たことがある。「愛とさすらいの青春」というサブ・タイトルがついていた。パンフレットによると、ボー・ウィデルべルイというスウェーデンの作家が監督した作品だとわかる。ウィデルべルイは、べルイマンを批判して小説から映画の世界にはいった…と記されている。映画『ジョー・ヒル』の方は、そうした楽屋話よりも、ジョーン・バエズが主題歌を唄うというので、上映当時評判になったものである。わたし個人としては、ジョーン・バエズの歌よりも、作中、主人公のジョー・ヒルたちが、町角で唄う「替え歌」(だったと思う)に、あっと思った覚えがある。 牧師が おごそかに 天国を語る時 おれたちは腹がへる …… 「……」以下の歌詞は思いだせない。メロディの方は頭の中で、「……」以下も流れている。何度も唄ったことがあるからだ。もちろん、これは、日本人の誰かが訳したものだろう。映画の中では、訳詞の方はでてこない。しかし、そのメロディを聞いた瞬間、すぐにそれだとわかったし、この映画の「あらすじ」を忘れたあとも、『ジョー・ヒル』といえば、その歌を反射的に思いだすようになっている。 ジョー・ヒルは実在の人物で、この映画の監督とおなじくスウェーデン人である。一九○二年、アメリカへ移民としてやってきた。やがてIWW(世界産業労働者組合)と出会い、「ウォブリー」(Wobbly。Hoboとおなじく浮浪者の意味。不安定な無産階級をあらわす)の運動に参加し、無実の罪で死刑になった。 映画『ジョー・ヒル』を見た時、このIWWがよくわからなかった。映画では、ジョー・ヒルとブラッキー老人が無賃乗車で旅を続ける場面にでてくる。貨物列車からつぎつぎ飛び降りてくる男たち。かれらはいう。「今日、町で唄うから、きみらもきたまえ」。この男たちが労働者であることはわかる。組織のオルグらしいこともわかる。しかし、この男たちが町角で歌を唄うこと、そうした戦術をとるにいたった背景、あるいは、当時のアメリカにおける労働者の状況はまったくわからなかった。そのことを明らかにしてくれたのは、ハーヴィ・ワッサーマンの『ワッサーマンのアメリカ史』(茂木正子訳、晶文社)である。 一九○四年、IWWはシカゴで誕生した。 「東部の移民貧民窟に、ミシシッピー河を越えた鉱山に、森林伐採場に、港町の労働者のあいだに、そして、移動労働者、有蓋貨車にただ乗りしては、渡り者の労働者のキャンプを世にひろめたホーポ(渡り労働者)たちのあいだに、ウォブリーの教義はまたたくまに広がった。会費は安く、黒人でも女性でも、あらゆる種類の移民が差別なく自由に入会できた。何十種類ものウォブリー機関紙は、 一○をこえる国々の言葉で、歌や物語、漫画などをのせた。配布の方法は、郵送によって、あるいは、鉄道の沿線で受けとって、『レッド』とか『ウォブ』とか、なんとでも好きなようにサインしておけばよいというシステムだ。痛烈な批判精神と、どん底にいるからこそわかる自由とを謳うハーモニーがあった」。「ジェームズ・ウォルシュのようなウォブリーのオルグたちは、貨物列車で旅をし、ウォブリーの機関紙や歌のビラを売って生活を支えた」。 ワッサーマンの『アメリカ史』は、ジョー・ヒルの処刑にも触れている。また「第一次世界大戦」への参戦を口実に、こうしたウォプリーへの全面弾圧に発展したアメリカについても語っている。この『アメリカ史』は、全篇、利権独占の事実と貧困と差別の事実、その両極に位置した人間への証言である。これは、西部劇映画のまったく伝え得なかったアメリカの素顔である。 ところで、わたしは、『ーク・トゥェィンの『くックルべリィ・フィンの冒険』(一八八四年)について、 わたしなりの感想をのべようとして「まわり道」をしているのだが、その理由を示す必要があるだろう。ジョー・ヒルは、二○世紀初頭のアメリカの貧しさを身をもって味わった。その極度の貧しさは、ジョー・ヒルの時代だけではない。ジョー・ヒルの時代には、無産者の組織化と権利闘争が進行している。しかし、そうした試みさえなかった時代、あるいは状況がある。ハーヴィ・ワッサーマンは、南北戦争後のそうしたアメリカにも触れている。そこで語られていることは、マーク・トゥエィンが、なぜハックルべリィ・フィンを新しい冒険譚の主人公にすえたのか……ということを側面から照射するのではないか。そのことをいいたいためである。具体的にいってみよう。『ハックルべリィ・フィンの冒険』は、少年ハックと黒人のジムが、ミシシッピー河をくだる点にウェィトが置かれている。自称「王様」や「公爵」と出会い、さまざまな事件に巻きこまれることになっている。また、最後にはトム・ソーヤーまで登場し、ジムを救出しようとする。この物語の主人公はハックだが、『トム・ ソーヤーの冒険』(一八七六年)では、ハックはどう描かれていたか。 まもなく、トムは村の浮浪児で、飲んだくれのむすこのハックルべリー・フィンに出会った。ハックルベリーは町の母親という母親に、心底からきらわれ、恐れられていた。怠け者で、無法者で、下品で、悪い子であったからである。-それに、こどもたちはみなハックを崇拝していて、禁じられている彼とのつき合いを喜び、みんな、ハックのようになりたいものだとあこがれるしまつだからである。トムもほかのちゃんとした家の子たちと同様に、ハックルべリーのごうせいな宿無しの身分をうらやみながら、ハックと遊ぶことはかたく止められていた。それでトムは機会を見つけてはハックと遊んだ。ハックルべリーはいつもおとなが着捨てた服を着ていた。服はほころびほうだいで、ぼろぼろだった。帽子も型なしで、ふちのところが三日月形に大きく切りとられていた。上衣を着ればかかとのあたりまでたれ、うしろのボタンは背中からずっと下のほうにっいているしまっだった。それでも一つっきりのサスぺンダーで、やっとズボンをささえていて、ズボンのおしりのところが下のほうでふくらみ、中はからっぽ。すり切れてぼろぼろのズボンのすそは、まくり上げていないと、どろの中をひきず るといったぐあいだった。 (旺文社版・鈴木幸夫訳) もちろん、『トム・ソーヤーの冒険』の最後では、ハックはダグラス未亡人の世話を受けることになっている。そしてその最終章が、八年後に出版される『ハックルぺリィ・フィンの冒険』の冒頭につながっていく。それはさて置き、ハックの父親はどうだったか。『ハックルべリィ・フィン』の冒頭近い個所に、こう記されている。 おやじももう五十にちかいし、それそうとうに老けてしまった。長い髪がなわのようによじくれ、あかだらけになってたれさがっている。その奥のほうで目玉が二つ、ブドウがつるのむこうからのぞいてでもいるようにギラギラと光っていた。だが、髪はまっくろで、しらがはない。長くもつれたほおひげもまっくろだ。しかし、顔にはまるで血の気がなかった。顔といっても、見えている部分だけだが。まっちろけで、それもふつうのしろさじゃない。気持のわるい、ぞっとするょうなしろさ、-アマガエルの腹のしろさ、さかなの腹のしろさ、だった。 服はというと、-ただのぼろだ。それ以外にいいようがない。 おやじはひざの上にかたほうの足首をのせてすわっていた。その足の先のくつだが、そいつはやぶけて、そこから足の指が二本にゅっとつき出しているというしろものだ。その指をときどき、おやじがひょいひょいと動かした。帽子は床の上にころがっていた。てっぺんがふたでもあけたように穴のあいた、ふるい、くろのソフト帽だ。 (学研版・久保田輝男訳) これは、 ハックの部屋に、ふいに父親の出現する場面である。このあと、ハックは、父親に連れだされる。川上にある小屋の中に閉じこめられる。そこを抜けだし、黒人のジムといっしまになるところから、いわゆる冒険譚の形をとるのだが、この父親の描写、それに先立つハックの描写は、(付け足していえば、そうした立場のハックを新たに冒険譚の主人公に選んだことは)マーク・トゥエインが、じぶんのよって立つ時代状況を、どのように見ていたかということを告げてくれる。ワッサーマンは、先の『アメリカ史』の中で、当時のアメリカ南部をつぎのように記した。 「南部は、少数の農園領主が支配する奴隷労働のうえにたてられた封建帝国だった。一八六○年の南部の人口九○○万のうち半分が黒人であり、そのほとんど全員が奴隷だった。奴隷を所有していたのは、白人世帯の四分の一にあたる白人たちで、あとの『貧困白人』は、裕福なる低地から奥地の丘陵地帯へと追いやられ、そこで黒人奴隷と大差ない生活をしていた。歴史家フィリップ・ブルースは、次のように書いている。 「食糧が充分になかったりとても貧しかったりすることからくる血色の悪さ。ぼろぼろの衣料。これ以上の汚さはないといえるほどのあばら屋そのものの、家具もなく住み心地の悪い掘立小屋。なんとか所有している数少ない牛は痩せぎずで弱々しい…。困窮状態はいろいろなところに現われていた。ある意味では、こういった地域の南部白人ほどみじめな人々は、ほかのどこを探してもいなかったであろう。山の背や、やや衰えた荒地の住民……。どう転んでも、奴隷制度にすらまったく関係のない人たちであった」 カール・マルクスの『資本論』第一巻の出版は一八六七年(慶応三年)である。マーク・トゥエィンは三二歳、『とびはね蛙』を出版した年にあたる。マルクスは、『資本論』第二巻(死後出版)において、イギリスにおける労働搾取の実態を刻明に紹介しているが、(そして、その資料は、当時の議会に調査報告された「児童労働調査委員会」のそれによることを明記しているが)この時期、もし、マルクスが、アメリカにいたならば、イギリスのそれに劣らない労働搾取の状況を目にしただろう。二八八八年には、アメリカの産業機構は、一足三〇〇人の労働妻殺していち毎年約三万五〇〇〇人が殺され、五〇万人以上が負傷していると報告された。 一八八八年から一九〇八年のあいだに、アメリカの労働者七〇万人以上が仕事のうえでの『事故』によって殺された。一九≡年には一〇〇万件ちかくの労務傷害が報告された。鉄道会社だけでも一日に一〇人の労働者が死んでいた。炭鉱もおなじ。不具になるだげですんだならラッキーなほうだったのだ。 両手が無事で一〇本の指がそろっている制動手は、なみはずれて自分の仕事に熟練しているか、信じられないほどに幸運が、あるいは、その仕事についたばかりの者かのいずれかである。 労働力の大半を占めているのは子供であり、特にマサチッーセッツのマレソスのようなニューイングランドの町にある紡績工場や炭鉱では、それがひどかった。ローレンスの紡績工場で働いていたのは一四歳から一八歳の女の子たちだった。 操業を開始して二、三年たらずのあいだに多数の少年・少女が死んだ。紡績工場で働く者一〇〇人のうち三六人の男女ひとりのこらず、二五歳になるかならないうちに死亡した。」(同『一アメリカ史』)これらの引用は、マーク・トゥエインの「時代」を考えるため任意に抽出している。また、マーク。トゥエインが、「浮浪者」のようなハック親子を描いた(あるいは主人公に選んだ)その背景をわたしなりに確認するための引用である。いいかえると『トム・ソーヤー』なり『ハックル・ベリーフィン』なりに描かれた親子像は、当時のアメリカ(とりわけ南部)に遍在化Lているプアー・ホワイトの反映ないし集約であったということである。マーク・トゥエインは、そうした階層の人問を主人公にすえることによって、そうした階層の人聞性を無視する「アメリカの近代化」(企業中心の国土開発の発想)に向きあっていたといえる。これは、プアー・ホワイトだけではたく、逃亡者としての黒人奴隷ジムを、ハックの相棒として設定したことで、よりはっきりしている。ジムといいハックといい、これらのプアー・アメリカンを描くことが、逆に、そうした人間を無数に生みだす「プアー・アメリカ」 への曲折した照射告発であったということ。マーク・トゥエインの冒険譚は、冒険物語のおもしろさを伝えながら、それがそのままアメリカの「貧しさ」を伝えるものだった点に意味がある。 この物語には繰りかえし黒人を侮蔑する言葉がでてくる。ファー・ホワイトが、ホワイト故に「ニグロ」を蔑視する。こうした「踏みづけられたもの」が、さらに別の「踏みつけられたもの」を踏みつける事実を、マーク・トゥエインは刻明に描いている。自称「王様」、自称「公爵」といったベテソ師の活動をそこへからませることによって、ミシシッピー河流域の人間の偏見や滑稽さを浮き彫りにしていく。それらから誘発される「笑い」は、笑うことのできない現実を直視し、それが「新世界アメリカ」の素顔であることを痛感していたマーク・トゥエインの怒りと裏腹になっている。ワッサーマンによれば、一八七五年(『トム・ソーヤーの冒険』出版の前年)、ブルックリンの説教師ヘンリー・W・ピーチャーはこういったというのだ。 「貧困の理由には不徳義に関係ないものもあるだろうが、都市・町・村・田舎などを広範囲にまわって見たかぎり、一般的な真理のほうが正しいようだ。すなわち、自分の過ちや自分の罪によってもたらされた貧困以外に、この国の人たちは貧困に苦しんではいないということだ」。 こうした発想がある限り、マーク・トゥエィンは、ミシシッピー河流域の生活を「牧歌的」に描くことはできなかっただろう。飲んだくれのいる南部。ぺテン師のうろつきまわる南部。黒人を救出することがいかにハックの「良心」を疼かせるか……といったことを描き続けねばならなかった。 ところで、『ハックルべリィ・フィンの冒険』という時、その「冒険」ぶりについて触れるべきなのかもしれない。とりわけ、この物語の終り近い個所には、噴きだすようなトム・ソーヤーの黒人脱走計画が描かれている。ハックが、トムの発想にあきれながら、じぶんもまた、それに加担していく姿がある。この物語が、そうしたハックを介してマーク・トゥエィンの黒人の立場への加担を示したことはわかる。しかし、トムの大時代な脱走計画準備の間、鎖から解きはなたれることを切望しながら、トムの「遊び」につきあわねばならなかった黒人ジムの描き方、これに首をかしげる読者はいないのだろうか。この個所のトムの発想は、冒険を夢見る少年の表現という視点から見れば、共鳴や笑いを誘うだろう。しかし、その当時、ジムとおなじ奴隷の立場に置かれた黒人がこれを読んだと(仮定)すれば、わたしたち読者とおなじように笑っただろうか。また、現代のアメリカの黒人たちは、おなじく笑うのだろうか。この脱走計画の個所は、とてもおもしろいところなのだが、わたしは手放しで笑えなかった。なぜなら、黒人奴隷ジムが、トム・ソーヤーの「遊び」の道具化されていて、その「遊び」の 都合上、小屋の中でいつまでも鎖につながれていなければならなかったからだ。ジムは、物語の登場人物だから、それほど、ものわかりのいい黒人だったのかもしれない。しかし、物語の外側にいるジムの仲間たちは、果してマーク・トゥエィンの考えるほど辛棒強い黒人だったのか……。 こうした「感想」は、的はずれの揚げ足とりに聞こえるのかもしれない。少なくとも、マーク・トゥエィンを「人間性尊重」の作家として評価するものからは、「重箱の隅を突っつく」ものとして眉をしかめられるだろう。しかし、マーク・トゥエィンが果した役割と、マーク・トゥエィンの残した問題点とは、混同されてはならないだろう。わたしの首をかしげていることは、ほんの小さな事柄かもしれない。だが、小さなトゲの疼きは、時として体全体の不快感を誘発する。『アンクル・トム』が、黒人の冷やかな反応を引きだす時代である。できるなら、「あなたにとってマーク・トゥエィンとは…」と、ハーレムでインタビューを試みてみたい気がしないでもない。 |
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