白鳥異伝

荻原 規子

福武書店 1991

           
         
         
         
         
         
         
         
    
 八◯年代半ばのファンタジー不作の時代、児童文学の世界ではまことしやかにこのようなことが囁かれていた。曰く、「日本に本格長編ファンタジーが生まれないのは、文化の中に骨太な正統的神話がないせいだ」と。ここにいう「骨太な正統的神話」というものがどのようにイメージされていたかは、おそらくそれを口にする各人によって様々であったと思う。が、共通の了解事項としては、為政者の政治的思惑によって編纂された記紀神話では、ファンタスティックな想像力を羽ばたかせる余地がないというこであったようだ。 ところが、八八年夏、この迷信を打ち破る古代神話に材を取ったファンタジーが発表された。荻原規子の『空色勾玉』(福武書店)である。ご記憶の方もあるかと思うが、この作品はひとり児童文学の世界にととまらず、相当に話題にされ、惜しみない賛辞が送られた。しかし、その一方で、作品の語りの推移の中で、幾分のねじれをおこしている点や、キャラクターの描かれ方がマンガ的であるという印象を持つ読者によって、一部で批判の声があったこともまた事実である。
 さて、この荻原規子が三年間の時間を置いて、昨年十二月に第二作『白鳥異伝』(同)を発表した。この物語は、タイトルらかも読み取れるとおり、その死にあたり白鳥となって飛び去ったと伝えられる日本神話の神ヤマトタケルの異伝である。 時は、前作『空色勾玉』から二百年ほど下った時代。三野の国長のもとで幼い頃より双子のように育てられた、少女遠子と少年小倶那が主人公として物語は展開する。作品の世界観は前作とは変わらず、伊耶那岐の末裔「輝」の一族と、伊耶那美の裔である「闇」の一族の相克が基調となっているが、今回は神の姿は後方へと押しやられて人間ドラマとしての色彩が強い。したがって、そこに描かれるヤマトタケルも弟比売も、あくまで人間小倶那と遠子であり、前作に比していえば、この二人のキャラクターと、脇を固めるきわめて魅力的な登場人物達の現代的性格づけは、作品にとって非常にプラスである。先の「マンガ的」発言は、神話なり神なりについて語るに際し、重厚な表現をイメージするという読者サイドの既成概念にあると思われるが、この点からも『白鳥異伝』が前作のような違和感を持って迎えられることはまず考えられない。
 さらに、この作品にはもう一つの得がたい魅力がある。それは、所々に挿入されるユーモラスな描写である。ユーモアを前面に押し出した作品を除けば、これはこれまでの日本の児童文学に全くといっていいほど欠けていたことで、シリアスなストーリー展開とユーモアの両棲をかろやかに描き出してみせたこの作品の筆力に舌を巻くより他ない。
 最後に、この作品がヤマトタケルを題材としてくれたことで考えさせられた、例の迷信について付記しておく。この二作品のみを見ても分かるとおり、日本神話がファンタジーのモチーフとなり得ないというのは世迷い言である。が、では何故にあのような迷信が生まれたのか。もしかすると、あの頃まで児童文学を支えていた作家達の多くが、皇国史観の教育に触れたせいで、記紀に対する感受性を呪縛されてしまい、無意識的に回避した結果ではないかと思うのだが、いかがだろう。
 ともあれ、少なくともこの荻原規子という作家は、記紀を含む日本神話への、これまでになかった感受性を持っているようだ。このいわば《神話する心》によって物語られる、今後の作品に大いに期待している。(甲木善久
週刊読書人 1992.2.24
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