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「わからない、わたしは、ここでなにをしているの。そう、ほんとうはわかってる。病院にいてもちっともよくならなかったから。ここに入れられたのは、ことばを取りもどすため…ここに入れられたのは、わたしの顔のせいかもしれない。わからない。」 この衝撃的な書き出しで始まる本書は、一九八八年度オーストラリア児童文学賞を受賞し、オーストラリアの一番大きな州で、ティーンエイジャーが投票によって決める愛読書の一位にもなっている。 ここ、とはどこ? なぜしゃべれないの? 顔がどうしたの? 次々にわいてくる疑問は、「わたし」という十四歳の少女がつづった半年間の日記の中で少しずつ明らかにされる。少女は、神経性の失語症で、しゃべることはもちろん、笑うことも泣くこともできない。自分の殻にとじこもり、極度に人との触れあいをさけている。少女は、新学期の二月に、ウォリントン女子学院の寮に入る。寮は八人部屋で、ふつうの健康な中学生七人といっしょだ。毎晩書くようにと、国語の先生がくばった日記帳に、少女は部屋の仲間のこと、自分のこと、両親のことなどを書き始める。 少女が失語症になったのは、両親の不和のせいだ。贅沢をしたあげく離婚をせまった母親に、父親は怒り母親を傷つけようとする。が、手元が狂って少女の顔を傷つけてしまう。このため父親は刑務所に入れられ、母親は別の男と再婚する。少女の人間不信はひどく、週末に迎えにきた親と外出する寮生に向かって声をかぎりに警告したいと思うほどだ「信じちゃだめ!気をつけて! あなたは憎まれているわ! だれだって憎まれているのよ! おたがいに憎みあっているのよ!」 これほどまでに心身ともに深く傷ついた少女だが、寮生活のなかで次第にその傷をいやしていく。少女が立ち直っていく過程には、リンデル先生、キャシー、そして日記が、大きな力をおよぼす。リンデル先生は、日記帳をくばった国語の先生だ。魅力のある授業をする先生に少女は引かれるが、先生のほうも少女を気にかけてくれて、四月には週末に自分の家に招待してくれる。先生の家族はみんな暖かだった。特に三つになる女の子はかわいく、その子にすなおに顔の傷を同情され、少女は病気になって以来初めて泣くことができた。この後も何度も家へよんでくれ、少女が再入院したときには少女を学校へつれもどすの に力をかしてくれる。 キャシーは、寮の同じ部屋の仲間で詩の上手な女の子。両親とうまくいっている数少ない中の一人だ。しつこいくらい少女に関心を示し手紙をくれたりする。少女もキャシーをいやがらず、誕生日には思いきってプレゼントもわたす。キャシーは少女が入院したときには、花を贈ってくれ、学校へもどれるように校長先生にたのんでくれる。また、七月の休暇には、キャシーのお母さんまで手紙をくれ熱心に家へ招待してくれる。 リンデル先生にわたされて書き始めた日記だが、少女にとって自分の心を見つめるのにどんなに役にたったことか。日記は、読者にとって少女の気持ちをつかむのに最適な形式であるばかりでなく、少女が心の傷をいやしていくうえでも二重の効果をあげている。 周囲の人々の暖かさにふれ、少しずつ立ち直っていくなかで、少女は父親に手紙を書き、ついには父親に会いにいく。「マリーナ」と父親に名前を呼ばれ(作品中初めて)、だきしめられ、少女が「話すことがたくさんあるの…」と声をだす最後の場面は、ことに感動的だ。 日記に描かれるオーストラリアの女子中学生の寮生活も生き生きとしていて魅力があるが、やはり心にせまってくるのは、人間にたいする信頼をとりもどしていく、少女の心の軌跡だ。物があふれ、心の貧しさがさけばれている今日、(物の)豊かさを求めた結果家庭がこわれてしまった少女マリーナの物語は、わが国でもぜひ読んでほしい作品だ。(森恵子)
図書新聞 1990年7月14日
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