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『ハリー・ポッターと賢者の石』(松岡佑子訳 静山社 1997/1999) 一九九九年五月九日、日曜日の午後、ロンドンのサヴォイ・ホテル、古き良き大英帝国を感じさせる重々しいホテルのロビーで、私はパソコンを前に翻訳に余念がなかった。あと一時間もすれば著者のJ・K・ローリングに会える。その前にすこしでも翻訳を進めて、わからない個所を質問しなければ……。一筋縄ではいかない、こんな複雑な文章をイギリスの子どもは本当に理解しているのだろうか。読みこめば読みこむほど、著者ローリングの文章のたくみさに舌を巻くばかりだった。 ティー・ラウンジで彼女は侍っていた。赤毛の農い髪、ほっそりとして青が高い。写真で見たときは内気な口数の少ない人かと思えたが、本人はいたって気さくでよく話し、芯の強さを感じさせる女性だ。何事にも好奇心一杯で、デジタルビデオカメラにすっかり興味を持ち、自分でも撮ってみたいと言い出した。ローリング女史のピデオ初体験の映像には、私のうれしそうな顔がしっかり映っている。ローリング女史は、二十五歳のときに最愛の母を多発性硬化症で失い、悲しみを紛らす意味もあってポルトガルに移り、英語を教える仕事についた。ポルトガル人ジャーナリストとの結婚、女の子の誕生、そして離婚の後、妹の住むエディンバラに戻ってきた。幼い子を泡えたシングルマザー、しかしどうしてもハリーの物語が書きたかった。 ハリー・ポッターのイメージが啓示のように現れたのは二十五歳のとき。ローリング女史が書いた短い自叙伝によれば、次のような事情だった。 「イギリスではよく汽車が遅れますが、その時も私は遅れた汽車を待っていました。突然目の前に緑の目、クシャクシャの黒い髪をした痩せた男の子のイメージが湧いてきたのです。汽車に乗りロンドンのキンダズ・クロス駅に到着するまでに、物語のほとんどが頭の中でできあがっていました。この男の子は魔法使いだから、魔法学校に行かせよう。それに主要な登場人物のイメージがすべてできあがっていました。それから五年間、ポルトガルで英語を教えているときも、教材の紙の裏に学校の寮の名前を書きつけたりしていました。エディンバラに戻ってきたときは荷物の大半がハリーの資料でした」 そしてようやく『ハリー・ポッターと賢者の石』を書き上げたとき、ローリング女史は三十歳だった。いろいろなところに持ちこんだが、大手の出版社はとりあってくれなかった。児童書としては長すぎるというのが断る理由だった。結局一年後の一九九七年六月に、ブルームズべリー社という中・小の出版社から出版された。刷り部数も少なく、わずかな原稿料が支払われただけだったが、彼女は大満足だった。今では初版本がプレミア付で取引されている。
楽しい雰囲気で、あっという間に二時間以上がたった。娘さんが日本にとても興味を持っていて、日本に行ってみたいとのこと。「桜の時期はいかがですか?」と伺うと、ぜひ行きたいと身を乗り出した。もっと話していたいという思いだったが、忙しい彼女をそれ以上引止める事はできず、再会を約して別れた。 それから半年が経った。その間、「ハリー・ポッター」シリーズの人気はうなぎ上りで、五月の比ではなくなっていた。イギリスで七月に出版された第三巻は、子どもが学校を休んで買いに行かないよう、下校時間の三時四十五分にイギリス中でいっせいに発売開始された。書店の前には興奮した子どもたちと、同じように興奮した親たちが行列を作った。アメリカの読者が、インターネットでイギリスに注文を出すので、アメリカでも出版時期を早め、九目八日には第三巻を出した。 私は日本のテレビ局の取材に同行し、ローリング女史の住むエディンバラに向かった。そして、十一月二十日、彼女がコーヒー一杯でハリーの物語を書き続けたというニコルソン・カフェで彼女に会う事になった。取材の準備のため少し早めにカフェを尋ねてみると、そこはニコルソン「レストラン」という、こぎれいなプチ・レストランだった。取材のために店を開けて侍っていてくれた親切そうな若い男性に、J・K・ローリング女史は、本当にここでハリーの本を書いていたのかと聞くと、そうだという。今でも時々来るが、物を書くためではなく、インタビューを受けていることが多いそうだ。小さなみすぼらしいコーヒーショップだと思ってたが、改装したのかと尋ねると、以前はコーヒーショップだったが、少し高級にしてレストランになったということだった。 約束の午前十一時、ローリング女史が表の通りをこちらに向かってくるのが見えた。髪を短くして金髪に染めている。とてもよく似合っていたし、パンツスーツ姿の彼女はいかにも作家という雰囲気だったが、個人的には、自然のままの彼女の長い赤毛が好きだった。スコットランドとフランスの血を引く彼女の母親が赤毛だったそうだ。孤児のハリーが、亡くなった母親を慕う場面で、母親が「深みがかった赤い髪にハリーそっくりの緑の目」を持つ美しい女性として描かれているのはそのためだろう。 テレビのインタビューは、彼女らしいてきぱきした答えで約一時間で終了した。
ローリング女史がハリーを孤児という設定にしたのは、親から解放された状態で、自分の力で成長してゆく過程を描くためと菖われている。意地悪ないとこ、学校でのいじめっ子、そして両親を殺した邪悪な魔法使いとたった一人で対決するハリー。だからこそ愛、友情、勇気がかえって鮮やかに物語を彩っているのだ。しかし、現実のローリング女史は、一人娘に溢れるような愛情を注いでいる。 インタビューのあと、本にサインをお願いした。それを書き終えると、「子どもを学校に迎えに行く時間だから」と彼女は母親の顔になった。私がスイスからお土産に買ってきた、真っ赤なリュックサック詰のチョコレートをうれしそうに抱え、最後にローリング女史はこう言った。 「このプレゼントをあげれば、あの子は私が仕事でそばにいてやれなかった事を許してくれるでしよう。日本での出版の成功を祈っています」(おわり) |
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