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この作品からは、作者自身の<思い>が溢れている。 自分が少女(女)であること、それだけで起こる理不尽。例えば委員長に任命されたにもかかわらず、女にはふさわしくないと否定されてしまう柾子。しかも回りの少女達は、柾子が理不尽と感じていることにまるでむとんちゃくで、むしろそれを当然のことと思い、返って柾子を変だと、おかしいと、秩序を乱すと、女の敵だと責め立てる。 又、疎ましく、ハンデのような生理。 『そう思うあいだにも、身体からの流れはとぎれることなくつづいている。ねえさんにつながり、おかあさんへとつながっていく流れ。女の流れ。なまあったかでなまぐさい流れ。この流れは、太と柾子とをはっきり分ける流れなのだ』 全体に漂っているのは屈辱感であり、それをどう処理すればよいかと考え、行動しようとする柾子の怒りである。おそらくそれらは、作者自身が子供時代から感じて来た理不尽だと思われる。作者はそれをこの作品に思い切りブチ込んだのだろう。その筆づかい、息づかいは、信じられないほどに過剰に感情の描写される文章から容易に読み取れる。一つだけあげれば、 『きょうまで柾子という女の子が育てあげ築きあげて来たものが、いまくずれ、流れ落ちていくのだ。いまのいままで、柾子が柾子でありえていたものが、消え去ろうとしているのだ』と言った風である。 数多くの理不尽がこの世の中にはある。などとは、改めて言うのも恥ずかしい程のことだ。確かにそれは溢れている。そして、それを訴えることは別段無駄なことでもない。なぜなら、<常識>常識と言う怪物は、一瞬理不尽さに口ごもれば、あっと言う間にその理不尽さすら強固に常識の中に組み込んで行くしたたかさを持っているから。<常識>常識とは、理不尽の代用語と言ってもよい位である。 その一番良い例がまさしくこの作品の中で取り上げられた理不尽、つまりは女性への抑圧と言う常識である(現在のフェミニズムの闘いが、非常な困難を伴いつつも、この社会の文化文明を根底から覆す可能性すらはらんでいるのは、<常識>と化した、理不尽(女性差別)を撃たなけれはならないからである)。 が、この作品の問題はここから始まる。 柾子は過敏に理不尽を感じて、それへの挑戦を果敢に始める。髪を切り、サッカー部に入り、男に交じってゲームをする。女にだってやれる筈だと言うわけだ。 一般の少女達からは例によって非難をうける。伝統あるサッカ-部を汚す行為だと。そして彼女達はこれみよがしにサッカー部のマネージャーになる。女の仕事の位置につく。柾子は頑張る。頑張って頑張って頑張る。やがて、チームの中で重要なメンバーになる。 決勝戦、ゴール前の柾子にボールが出る。いままでのゲームどおり、柾子がシュートを決めれば、優勝だ。 『柾子のほほに、笑いがわいてきた。/サルビアの花を思わせる真紅のシャツのキ-パーが、身構えている』 が、その時、例のものが彼女を襲う。 『「あっ」息がっまった。/くずれている。ながれている。すべりおりている。/そして、ぬるぬるとゆっくりはいだしてくる感触が、柾子の血を逆流させた。/どうしよう。よりによってこんなときに……』 彼女は失敗する。屈辱感。女だから……。筆者は突然起こる生理がこのように女を縛るのかどうか知らない。ただぼんやりと、それもたぶん古布世代と、脱脂綿世代と、アンネ世代と、タンポン世代ではだいぶ違うだろうなと、「樹下の家族」 (干刈あがた)などを思い出しながら考 えるだけである。だからその屈辱感に対してはノーコメントとして、そこから柾子がどう動くかに興味は行く。 柾子はそこから、柾子自身が屈辱を感じた筈の柾子自身が考えている女に居直る。産む性、産みを何にも変えがたい美しいことだと、それを感じることも出来ない男を無視して、居直る。男に、そして男に最初から従っている女に突っ張るように、居直る。それは、次のようなプロットによって行われる。
それはまるで、一度男を目指した柾子の、その失敗を埋め合わすための痛ましいまでに徹底した女帰りに見える。 『女に居直る』 『女らしいことへの納得』 『女帰り』と書いた。が実はこれは<女>女ではない。正確には<母>母である。主人公<少女>は男<男>に対応する<女 >女ではなく、自らを<母>母へ向かわせることで、理不尽な屈辱的な状況を回避するのだ。 女が産む性を強調すること。それはフェミニズムの戦略としてはこれまでも使用されてきたし、今後も行われるに違いない。ただしそれは、我が身、古布から夕ンポンに至るまで(もちろん今後も) 抱え続ける生理をただそのまま男に、汚れとハレなどではなく、ちゃんと見詰め、認めさせるための、強調である。別の言葉を使えば、女は、産業社会に捧げるために子供を再生産しているのではないと言う、宣言である。子供を産める体、子供に自らの生を託せる性、自らの命に替えても惜しくない程大切な生命を産み、育てる性、だからエライと言ったことでは決してない。 そのような決意、ありていに言ってしまえば『所有欲』が、これまであらゆる(もう「あらゆる』などと思わず言ってしまったりするが)差別の素顔を隠蔽する作業を補填したのではなかったか? 柾子は疲れていたのか。とにもかくにも、そこに逃げ出すしかなかったのか。では何故柾子は、どこで柾子はこのような疲れる結果を招いたのか。それは、柾子が自らの存在、女であることを結局は最初から最後までハンデとしてしか捕らえていないところにある。 サッカー部に入る柾子の決意は、ハンデの克服でしかない。彼女はその時「あこがれといっしょに貯えていたおさげ髪を切」る。 「おさげ髪」に象徴される女のハンデを捨てるわけだ。 「おさげ髪」のままの柾子がサッカー部に入ることの重要さが見えていない。先に述べた、理不尽な常識< 理不尽>な<常識>に対して、<常識 >常識を常識<常識>から引きずり降ろし、その実は理不尽<理不尽>である本当の姿をさらけださせるのではなく、その<常識>常識の中へ身を投じる。だからそれは、最初から敗北は見えている闘いと言える。万一それでも認められたとしても、それはあの、『善意』と言う言葉に代表される、居心地の悪い場所にしかすぎない。『善意』はいつだって『悪意』と等価値に一瞬の内にすり替わる。例えば「君は他の女と違ってすごい」と言った風に。そしてそれはただちに男にとって真に都合の良い、女同士の分断政策となる。 柾子の場合は、先に触れたように、その『善意』にからめ取られる以前に、ハンデ< ハンデ>としてしか機能していなかった『生理』によって自滅する。『おさげ髪』は切ることができても『生理』は捨て去ることは出来ないと言う、ごく、当たり前の事実によって。 彼女にとって残された道は、自らがハンデだと誤解してしまったものを今度は過剰に価値あるものと読み替えることでしかない。 『生理」、『妊娠』、『出産』、『美しい』 この『美しい』と言う言葉はごく安全な場所である。おそらく誰も、それに異を唱えない。誰が育児するかは別として。しかし、「女による女だけの女のための出産」など、男の常識<常識>=<理不尽 >理不尽のどこを揺さぶると言うのだろう。もしそれを男社会に対する異議申し立て、反旗とするとすれば、本当は「出産」の後にもっともっと付け加えなければならない筈だ。「出産、育児、教育、社会、政治…!」すなわち、一瞬たりとも子供を男に引き渡さない。すべてを女が仕切る。そこまで行かないと、少なくともそこまで視点を据えてかからないと、それは自家中毒ぎみの自足であり、男は「へえー、やっばり、女の人ってすごいんだ。ほく感動しました。じゃあ、子供のことよろしく。大きくなってぼくらの社会で役に立つようになったら貰いにきますから。 んじゃネ」と言うぐらいのものだ。現にそんなことは、結婚披露宴に出席すれば、いやになるほど、新婦の元上司の祝辞かなんかで聞かされる。 どうしてだろう、どうして柾子はそんな風に変なとこへ行ってしまったのたろう。きばり過ぎたからかな。もったいないな。 柾子さん、そんなところで居直ったらあかん。そんなところで性差をわざわざ強調したらあかん。せっかくここまでは来た、女の足を引っ張ったらあかんて。だいいち、そしたら、産めない女と産まない女はどうすんのん。パーみたいやんか。そんなとこで安心しとったら、後が大変やで。ねえ、ねえ。 柾子さん、この世の中でなあ自分が女やからってことで、何か理不尽な思いを感じたら、それはもう絶対にこの社会のンステムの方が悪いの。あなたがハンデと思ったことは、社会がそう思わせてるの。決してあなたのせいやないの。だから髪なんか切る必要は全然ないの。そのままの姿で(あんたその髪型気にいってたんやろ)、認めさせるの。そしてそれでもごっちゃらごっちゃら言う人がいたら、『私って、へーンな奴だよ-ん。いいでしょが』 って笑い飛ばしてやるの。ほんでもし、サッカーの決勝ゴールの時に生理でヤバクなっても、それで負けても、やっぱり女だからなんて落ち込まないの。『こめん、ごめん。単なるミスよォ-』 ってひょーきんにしてたらいいの。ゲ-ムにアクシデン卜なんか、コーヒーにクリ-プよりも当たり前のことなんやから。それで文句言われたら、「んじゃきっと、ル-ルが悪いの。 アクシデントの時にタンマしていいルールになってないのが、変なのだ。お相撲やったらあるやん、ほら、まわしが外れかけたら、タンマって言ってやればいいの。そんなに大層に考えんといてね。それになんだったら、ヤバクても平気で蹴ったってええんやし。 それとさ、柾子さん、あんた、弟の太に『男のくせに』 って言いかけたやろ。駄目よォー。あんた、『女のくせに』にカチンと来てたんやから、そんな発想で太のこと見たら。おねえちゃんが恋人だった人のことあんたに話した時に『男らしい』って彼のこと言ったやろ。あんなのにかて、ちゃんとカチンと来んと。感動だけして聞いてたら、ちょっとウカッよ。 ねえ、ねえ、柾子さんさあ、おねえちゃんの出産シーン見たのは悪くなかったしィ、感動したのもすてきだからさァ、それはひとまず大切にしまっといてェ、もう一度張り切ってみない? あたし、おねえちゃん達とはちょっと違うタィプやけども、ええ女の人も知ってるから、今度紹介するから。待ってるね。 (ひこ・田中)
児童文学評論23号 1987/07/01
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