世代を超えた視点

「猫の恋」 高田桂子 原生林
「はしけのアナグマ」 ジャニ・ハウカー 三保みずえ訳 評論社

           
         
         
         
         
         
         
    
 「老いる」ことを若い人間は、いまだ経験したことがない。「わたしがこどもだったころ」は誰にとっても共通項になりうるが、「わたしが老人だったころ」は神の視点である。あたりまえのことだが、自分の「老い」が経験できないからいろいろなフィクションの中で語られることになる。その場合、作者がまざまざと眼にしたまわりの老人像、その独特の語り口がモデルになって登場することは否めない。老いの文学がもし子どもの文学同様に存在するならば、両者の書き手はその対象年齢の人のためだけに書いたとは思えない。その点で凛とした共通点に輝くのではあるまいか。
 ここにとりあげる二冊はともに最近出版された作品である。地味な点ではまことにひっそりと以前から本棚に鎮座していた錯覚にとらわれるほどだ。大仰でなく、華々しさもない。ところがこの二つには良い意味での凄味がある。一つはイギリスから、一つは日本から、ともに動物と老人が鼻息?露わにせまってくる。
『はしけのアナグマ』は一九五七年キプロス島生まれのジャニ・ハウカーのデビュー作で、作品集を出した時作家は28歳の若さだった。タウンゼンドがこの作品を高く評価して「作家は若く、地方的な特色をもっているが、すでに熟練の域に達している」と書いたが、これは逆に熟練した作家がこうしたういういしさをもって「汚い老人」を書くことのむずかしさも示している。
 ヘレンは学校の収穫祭でもらったくだものを、年金生活者のお年寄りにとどけることになる。少女は使命感も喜びも何もなくて、ただ運河のはしけ船に住むプレイディさんのところに向かう。ここはランカシャー。運河の水は黒ずんでいる。むこう岸にはクリケット競技場があり、丘のいただきにはグラマー・スクールがそびえている。お年寄りの関節炎にはまことにつらい、冷たくて湿り気の多い寒い気候。遠目には絵のような船だが、ちかづくとペンキは剥げかかり、デッキには汚れたわらが積み上げてある。絵のようなイングリッシュガーデンもイギリスなら、これも本物のイギリスだ。かつての繁栄がうそのような沈んだ街、ゴミ、糞、どちらが攻めているのかすらわかりにくい摩訶不思議なスポーツのクリケット、教育の不均等、頑として動かない階級社会の有り様。『はしけのアナグマ』のプレイディさんとアナグマから匂ってくるのはこのイギリスの強烈さでもある。生まれてはじめてアナグマをみたヘレンは、太っちょのクマみたいで、ブタみたいにミルクを飲む、いやなにおいの「あくたれビル」がプレイディさんのペットかと考える。どっこい、このお婆さんはヘレンに対等にせまってくる。「アナグマがペットになるもんか」「あたしはがんこばあさんなんだよ、人間ぎらいで――好きになったことってないね。ことに子どもはね。ガキどもにはがまんならないよ」子どもはスキをねらうが、プレイディさんはにこりともしない。一人でいることが性にあうと宣言するこの老人は「ここに住んでて、あたしにいちばん用のないのが世間の人たちなのさ。色んなことをさわぎたてて変えようとする人たちだよ」とヘレンの力をためす意地悪をする。兄を事故で亡くしたばかりのヘレンも、父さんと母さんの悲しみを一手に引き受けて暮らす女の子だ。「わたしはなにかを変えようなんてつもりはありません」と答えてプレイディさんの信頼を得る。そこでこの老人は自分の入院中のアナグマをヘレンにまかせ、病院からの無届け外出の片棒をかつがせる名誉をヘレンに与えることになる。ばあさんとアナグマの鼻息は、とんでもない形でヘレンを抜けて、両親に久しぶりの笑顔までもたらせる。
 高田桂子の『猫の恋』のわたしは、追っ手がせまってこないのを確認して、古い木の引き戸を閉め、土間に足をいれて新しい生活に入る。都営住宅の一角。枯草がはえ、裸の木々が寒そうにつき立っている中、旧びた平屋が隠れるようにうずくまっている。老人の隠れ処。わたしは十八で商家に嫁ぎ、大舅から姑から小姑に仕えて三人の娘を生んで育てて自分のことをかまう暇はない暮らしをした。「ものを思う暇など一秒とてない暮らしだのに、人恋しくて人間が恋しくて」この老人は川柳の会にようやく出かけて、外をみた。そして同時に内をみた。その結果、たくさんの血縁者と暮らしならが人恋しかった老人が家族を離れてであったのが一匹の子猫。ただし猫も老人も互いの距離は守り続ける。人恋しさを猫が全面うめる話ではない。この物語の凄味はこの老人のそれまでの人生と、短期間でいっちょうあがりの猫の「猫性」を交叉したところである。子どもを生みながら、「その生きものとわたしの関係がどうしても理解できない」女を、老人はかつての自分と猫に同時にみたのだ。作者は『からからからが』の中で「ぬさばあさん」という忘れがたい老人を生みだした人である。「すがたかえ」という魔法の穴をぬけても、ぬさばあさんはあの大きな卵につつまれて飛びでてきたことを、わたしたちは忘れることができない。その卵の殻から殻が……最後に手のひらにピョンと乗ったのは、小さい小さいぬさばあさんその人で、やってる、やってる銭勘定だったではないか。無理やり変わらされてたまるもんか、ヒッヒッヒとぬさばあさんの口調を真似ていると、不思議に最初のプレイディばあさんへとつらなっていく。人のために「どうしてあたしが長年の習慣をかえなきゃならない」と言い放つ老人を、ヘレンの父さんは「古強者」、「あくたればあさん」と降参して久しぶりに大笑いした。
 ファージョンが110歳のおばあちゃんと10歳の孫娘の心の絆をやさしく歌う一方で、この両者と相通じあえないのが中年だから(両者の真ん中の世代)ときりりとしめた文章がある。まさにこの間の世代にあって、三人の作家の確かなまなざしは輝いている。これらの女性作家は、各々のおばあさんを語ることで自分の「大冒険」を企てたといえるだろう。(島 式子)

テキストファイル化伊藤美穂子