走りぬけて、風

伊沢由美子・作
佐野真隆・絵 1990年6月 講談社

           
         
         
         
         
         
         
    
    
 「児童文学離れした」というのが大概の人にとってはほめ言葉に聞こえるというのは、あまりうれしくないことなので使いたくないのだが、この作品に対してはあえてそう言ってみたい― 「日本の児童文学離れした」実に手応えの確かな作品だ― と。
 重層的で一筋縄ではいかないこの作品のテーマを、無理を承知で簡単に言ってしまえば、やはり「子ども時代との訣別」ということになるだろう。主人公は、小学六年生のユウで、夏休みに入る前のほぼ一か月間の物語である。
 ユウの“子ども時代”を象徴するものは二つあって、一つは毎年の夏に近くの商店街が開催する福引き、もう一つは彼が今まで住んできたアパートである。東京の私鉄沿線にあるユウの住む町も、再開発の波が徐々に押し寄せ、これまで住んでいたアパートは取り壊されることになり、今はユウの家族を含む数世帯が残るだけになっている。
 そして物語は、ユウより二つ年上で、ユウたちの遊びのリーダーだったヨシさんの家の引っ越しから始まる。その後にこのアパートでは後から入ってきたナオコの家の引っ越しがあり、ついにはユウの幼馴染みで親友のトモヤの家も越していき、ユウの一家の引っ越しで物語は結ばれる。
 この夏休みを前にした時期は、実はユウにとっては特別な意味を持つ祭りのような時間だった。例年、アパートのある柳通り商店街の福引きがこの時期に行われ、ここでは一等の商品は特注のツーリング用のサイクリング車と決まっていた。ヨシさんの影響もあり、小さい頃から自転車への特別の愛着を育ててきたユウは、なんとかしてこれを射止めようと、福引きの商品の出方についてのデータを一年生の時からノートに書きためてきた。その結果、他の賞品の出方との兼ね合いで、一等が出る時期については、ほぼ特定できるまでになったのである。(そんなことが実際に可能だとはこの説明だけでは納得しにくいだろうが、この作品ではそのデータとそれに基づく推論が実に緻密に展開されており、それだけでもこの作品の作られ方の“贅沢さ”がわかるというものだ。)

 実はこのノート自体、やはりヨシさんの真似で始めたことなのだが、その最大のライバルであるヨシさんは、もはや引っ越してしまっていない。そしてこの夏でこの町を去るユウにとっては無論今年が最後のチャンスなのである。ユウがこの福引きをどんな思いで迎えたかは言うまでもない。
 しかし、ここまでの説明では、ドラマのようやく片側しか述べられていない。この年の福引きに特別の思いを寄せているのは、ユウだけではなかった。この商店街も再開発の波に押されて廃業や転業を余儀なくされる店が多くなり、存続自体が危ぶまれている。福引きは今年で終わりという方向も出されている。この商店街の会長であり、福引きの差配をしている酒屋の隠居、吉田のおじさんと、商店街発祥の頃からの仲間である自転車屋のおじさんは、この最後の福引きに、一等賞品をフランス製の高級サイクリング車ル・バンにすることで彼らの思いを表現する。彼らは若い頃に共にフランスを自転車で旅したことがあり、そんなこともあってこの商店街の一等賞品はずっとサイクリング車だったのである。時間はこの商店街にそんな風にも降り積もり、言うまでもなく、ユウの住むアパートの取り壊しも、そうした時間の流れと重なっている。
 さて、これでもまだこの作品を構成する重要なファクターについて全く触れられないでいる。それはユウの家族、トモヤの家族、そしてナオコの家族、それぞれの物語という部分であり、そしてユウとトモヤの友情の(回復の)物語である。むしろ普通の作品紹介であればこの部分をメインに述べるのがオーソドックスなやり方かも知れない。しかし、それではこの作品が持つきわめて重層的で緻密な構成への理解がスポイルされる恐れがあり、あえてそれは避けた。ユウとトモヤは幼馴染みというだけでなく、今も同じクラスで親友なのだが、六年生になってからのあるできごとによって、その関係にはひびが入りだしている。彼らにはいつか二人で自転車で旅行しようという約束があり、それが果たして子ども時代のみに通用する空約束に終わるのか、それとも本当にその約束を実現しようとするのか、その成り行きもまたこの物語の水脈の一つを形作っている。
 さて、なんとしてもサイクリング車を当てたいユウ、そして恐らく心中ではこの少年にこそ当ててほしいと思いつつ、そうした素振りは無論見せない吉田のおじさん。僕はこの商店街会長を、日本の現代児童文学に描かれたリアリティーある大人の代表的人物に推薦するに吝かでない。
 物語の大詰め、一等が近いことは間違いないものの、どのタイミングで列に並ぶか迷っているユウ、密かにそれを見守る吉田のおじさん、そして(ネタ割れになるが)たった四枚の補助券のために一等を取り損なうユウ。あるはずだったその四枚がどうしてなくなったかの最後の種明かし、そして、ユウと吉田のおじさんとの別れ、トモヤとの旅を予感させるラスト……。叙情ではない、見事な物語の見事なフィニッシュに、他の表現形態ではなし得ない児童文学の可能性をみる思いがする。(藤田のぼる)
テキストファイル化塩野 裕子