ハテルマ シキナ
よみがえりの島波照間

桜井 信夫

津田 櫓冬 画 かど創房 1998

           
         
         
         
         
         
         
    
 桜井信夫さんは中島信子さんの夫である。お二人に先年札幌でお会いしていなかったら、又さっそくこの本を贈られなかったら、きっと私はこのなにやら重苦しい本を読まなかったに違いない。実際、贈られてからもしばらく読まずに積んでいて、ある日信子さんから「紀代ちゃん、桜井の本読んだぁ?」と電話をもらわなかったら、ずるずると先延ばしにしていたかもしれない。ともかく、あわててその晩読むことになった。そして久しぶりに眠れぬ夜を過ごしたのである。
 「戦争マラリア」という事実を知らなかった驚きもある。終戦間近な1945年、米軍の上陸で島民が情報を流すのを阻止するために、島の食糧が米軍に奪われないように、島民の強制疎開が命じられた。疎開地がマラリアの発祥地だということを軍は承知の上で、特務機関陸軍中野学校の残置工作員を離島に一人ずつ配置した。波照間に来た山下と名乗る男は最初は青年教師の仮面をかぶって、やがて軍刀を抜きはなった命令者として、波照間の牛馬をことごとく殺し、島民達をマラリアの地西表島南風見(はえみ)へと追い立てた。やがて蚊を媒体にしてマラリアが広がった。マラリアの特効薬キニーネの投与もなく、島民達は見捨てられたまま死んでいく。ようやく決死隊が八重山群島の守備隊旅団長に帰島許可を請う。6月23日沖縄本島は既に降伏し戦闘は終わっていた。帰島の許可を受けて8月末までに引き揚げ船が往復した。その間に日本が無条件降伏したことも彼らは風の便りに聞くだけだった。
 本当の地獄はその後に続く。食糧もなく、薬もなく、島民1590人中罹患者は1587人に上った。罹患率99.81%、死者477人。
 桜井さんの筆は、このような悲惨を静かな、おだやかな語りで語りかける。これは桜井さんの鎮魂歌なのだと私は思った。

 島民すべてがマラリア患者だった
 死者をようやくにとむらい
 ソテツを切り 水をくみあげ
 ソテツのかゆを煮あげることが
 できることのすべてだった
 漁船をあやつり 海をわたり
 救助を求めることができないままに
 8月 9月 10月がすぎ
 11月がすぎ 12月となった
 この静かな文体は何なのだろうと思った。これは、私たちが忘れかけていた日本の古い旋律なのではないか。桜井さんが書こうと何度も試みた児童文学の文体では、この辛い事実は伝えきれない。事実をありのままに伝えるはずのリアリズムの文体が、何度も桜井さんを裏切ったのだと私は思う。歌うこと、海の満ち干のようなゆるやかな旋律に乗せて歌うことで、はじめて桜井さんはこれを書き上げたと実感したに違いない。そして、このゆるやかな旋律は、読み手である私たちをも優しく誘い込む。共に鎮魂歌を歌おうと誘ってくれる。
 御詠歌も、子守歌も、民謡も、そのようにして歌われてきた。叙情は奴隷の旋律だとして排斥してきた近代。弁証法やら帰納法、演繹法やらを駆使して、戦争責任をあきらかにし、過ちを繰り返してはならないといくら叫んでみても共に泣く共感がなければ、人の痛みは伝わらない。物語はそのようにして生まれ、鎮魂歌は残されたものの心を和らげる。
 この本を読み終わった後の、ある種の快さは何だろうとずっと思っていた。それは旋律だったのだと今、私は納得する。歌が読み手を誘うのだ。共に語ろうと呼びかけてくるのだ。私は観客でも聴衆でもなく、読むことで共に波照間の人々に、鎮魂歌を歌っていたのだと思う。
 読みながら、島の人々がたった一人の山下の云うなりになるのが歯がゆかった。でもそんなことが出来るはずのないのが戦争なのだろう。戦後、山下はどうしたかが気になった。
 そのことはもう1冊の『沖縄戦争マラリア事件』(毎日新聞特別報道部取材班 1994年 東方出版)で知ることが出来た。
 山下は戦後3回島を訪ねている。1993年山下は72歳で健在、機械メーカーの会長をしていた。毎日新聞記者の取材に応じて、戦後波照間に行った目的を「懐かしいんだね。私には罪悪感はほとんどなかった」と答えている。
 この本の中には、同じ離島工作員が戦後琉球大学の教授になり、今は千葉の女子短大で障害児教育を教えている男の話も載っている。住民虐殺の証言のあるこの男も取材に答えて、「住民がやった」という。「なんでも軍人のせいにされてしまって、自分たちはスケープゴードだ」という。
 ああ、人間は過去を否定しては生きられないのだなと思った。宗教を持たない日本人は、結局「そういう時代だった」の一言で自分も他人も許してしまう。
 戦後、日本は自分たちの手でついに戦争犯罪者を裁くことをしなかった。1億総懺悔などとだまされて、島民にこぞって死の苦しみを味わわせた張本人を罰することなく安閑と暮らさせている。
 今、戦争マラリア犠牲者後援会が出来、戦後補償を要求しはじめたという。従軍慰安婦問題も、台湾の軍属の問題も、戦後補償の問題も政府はひたすら「戦後は終わった」として逃げようとしている。そんな政府を後押ししているのが、3600人もの人々をマラリアの犠牲にしながら、のうのうと余生を送らせている私たち日本人なのだ。 ( 柴村 紀代)書き下ろし