ひげよ、さらば

上野瞭・作
福田庄助・絵 1982年3月、理論社

           
         
         
         
         
         
         
         
    

※シミュレートする物語

 この物語は野良猫たちの縄張りであるナナツカマツカで猫のヨゴロウザが意識を取り戻すところから始まる。彼にはそこがどこで自分がなぜそこにいるのかが分からない。最初に出会った片目と名乗る猫はそれを人間の言葉では記憶喪失だと教えるが、彼は自分の名前がヨゴロウザであることを知っている。「おれの忘れてしまったのは、ここへくるまでのこと、いや、ここへくるまでどこにいたかということだけ」なのだ。
 物語の設定を簡単に述べれば、野良猫たちと餌場が重なる野良犬たちがいる。冬になれば、恐らく野良犬たちは餌の確保のため野良猫たちを放逐すべく行動を開始する。群れで行動している彼らと、てんでバラバラ、自分勝手な猫たち。それを憂える片目は野良猫の共同体を作るべく画策をする。過去を持たないヨゴロウザはナナツカマツカを巡る状況にとってはピュアな存在だと考える片目は、彼を相棒にする。やがてヨゴロウザはリーダーにまで担ぎあげられ…。
 もちろんこれは、犬と猫の戦いを描こうとしたものでなく、人間を犬や猫に模したもの。とすれば、組織化できる犬と、自己中心主義の猫などというのは凡庸すぎる。が、もちろんそんなこと、この物語ははなから承知。
 ここで、彼らの名前に注目。片目は正しく外見が片目。学者は物事をよく知っている知識猫。タレミミは耳がたれている犬で、歌い猫はいつも自作の詩を歌っている。つまり彼らの名前は外見であれ性格であれ彼らそのものを特徴立てるものによっている。それと呼応して彼らは、与えられたキャラとしての役割を忠実に演じ続け(例えば片目は最後まで自分の側からしか物事を見ない)、そこからはみ出さない。そうすることで物語りは、組織と個の関係性に生じるありとあらゆることをシミュレートできるようになる。カットし整理しバランスを取り整えるよりまず、そこで何が起こってしまうのかを余す事なく書き記すこと。様々な組み合わせが、飾られることなくぶつけ合わされ、その結果生じる出来事が読み手の前に無愛想なまま突き出される(ここに描かれた出来事のどれ一つも自らの体験と合致しないなどという人はまずいないだろう)。
 一方ヨゴロウザという名前は人間の飼い主が恣意的につけたもの。彼は自分が何者なのかをその名前によってではなく、常に対者との関係性の中で現前化できるだけ。だから彼は、ロールプレイをするのではなく自らの意思でどんどん変化していく。それを追うことでこの物語はとりあえずはストーリーの主軸を保っている。ただしそのためにヨゴロウザの欠落している記憶を取り戻す作業は先延ばしにされる。物語は、その作業のためのヒントを当初から具体的にほのめかしているにもかかわらず。このことは、物語に書き記される膨大な出来事が、そのたった一点の記憶を除去することで成り立っていることを示唆している。言い換えれば、その記憶をヨゴロウザから奪い、おあずけにして語り続けるこの物語がそれを手放した地点、それがこの物語自身が宣言する臨界なのだ。
※臨界を見届ける物語
 物語は、リーダーとなったヨゴロウザが組織を強固にするために軍事訓練も始め、恐怖政治へと向かうことを語り、彼がナナツカマツカで得た新しい自我を崩壊させかける所も語り、野良犬たちとの決戦へと語り進める。猫の組織化を図る片目の動機からすれば、ここがクライマックス。が、戦いの果てに追い詰められた猫たちが勝利を収めるのは、組織力によってではなく、野良犬が食中毒で死ぬことでなのだ。物語はまるで、ここまで語ってきた組織と個を巡って生じる様々な出来事の無効性に気づいたかのように見える。そしてその後物語は、その方向に向かって収束していく。犬たちの脅威がなくなったとたん猫たちは、片目が作り上げた組織から離脱していき、自らの夢が破れたと思う片目は、相棒であるヨゴロウザを道連れに無理心中を図る。
 ヨゴロウザの奪われた記憶が取り戻されるのは正にこの時。それは、飼い主であったばあさんが無理心中を図り、火を放ち、そこから逃げ出してきたというもの。これはヨゴロウザを私的所有物として扱う出来事であり、それを彼に思い出させるのは、片目もまた彼をそのように扱うから。この物語がヨゴロウザの記憶を奪ってまで語り続けてきた出来事たちが、ここであっさりと片目の私的領域に回収されてしまう。それは一見不思議だが、物語が宣言する臨界がそこであるなら、それはそのまま受け止めてもいいだろう。
 もし物語がそのような回収を拒否し、出来事たちを公的領域に止め、出来事に拘った猫たち全ての問題として語り終えたとしたら、それは良くできた、よくある安全な物語の一つとなったはず。ところが物語は、最初片目の私的領域でうまれた欲望が、公的領域に移り、再び私的領域に回収をもできてしまうことを明示している。公と私に境界線を引くことで存続する公的領域(組織)。それに対峙する私的領域(個)。こうした構図が実は公的領域を僭称する何かのために存在していること。だからそんな対峙の仕方は無効であること。この物語は、そこにまでたどり着き、そこを臨界とし、ヨゴロウザを生還させる。
 ここより先を臨界とする児童書はおそらくまだ出現していない。従ってこの物語は今もその巨大な姿を保ち、極北に位置し続けている。
 ラスト、実はこれは年老いたヨゴロウザが子猫たちに語っていたものであると分かる。そしてこれも年老いた歌い猫は言う、今度歌う歌のタイトルが「ひげよ、さらば」なのだと。
 こうしてこの物語は、見事に自らをもズラし語り終えることで、ポストモダン小説の相貌をも見せている。(ひこ・田中)
児童文学の魅力 日本編(ぶんけい 1998)
テキストファイル化富田真珠子