星の王子さま

サン・テクジュペリ:作
内藤濯:訳 岩波少年文庫

           
         
         
         
         
         
         
     
 この本には親友への献辞があり、その後に、なぜ大人の彼に捧げてしまったのかの、「ちゃんとした言いわけ」が、子ども読者に向けて書かれています。親友は、子どもの本をわかる人であると。そして「まだ、たりないなら」、彼は「むかし、いちどは子どもだったのだから、わたしは、その子どもに、この本をささげたいと思う。おとなは、だれも、はじめは子どもだった。(しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない。)そこで、作者は、献辞をこう書き改めると述べる。
「子どもだったころの レオン・ウェルトに」。
 ややこしい。「言いわけ」ですから、ややこしくて当たり前ですが、「まだ、たりないなら」と言って、彼は昔、子どもだったからと付け加えたにもかかわらず、それでもたらないかのように、そのことを忘れずにいるおとなは殆どいないと、親友が特別なおとなだと強調するのですから。つまり、子ども心を持つ少数のおとなと、それ以外のおとなに分断する。何のために?
 私は、この物語が、子どもに向けて書かれたものではない(もちろん読んで楽しむ子どもはいるでしょうが)からだと思っています。そうではなく子どもの本を偽装することで、おとなの中にある、子ども心に届き易くしているのだと。この「言いわけ」を読んだおとな読者は、自分をどっちのおとなだと思うでしょうか。自分は子ども心を忘れていると思った人でも、読み続けようとするなら、その人はこの物語によってそれを思い出したいと考えていることとなるでしょう。
 本文の最初のエピソードでも作者はまた同じ行為を繰り返しています(まるで、献辞を読まなかった人のためのように)。語り手の飛行士が子どもの頃に描いた絵を帽子と思ってしまう、子ども心を忘れたおとなたち、というものです。そうして、いよいよ王子さまが登場し、その絵がゾウを飲み込んだウワバミだと見事に言い当てます。ここまでで読者は、しょうがないおとなの話をさんざ聞かされていますから、おおーっ!とある種の感動を得るのですが、この王子さまは本当に子どもなのでしょうか? 子どもであるとしても、かなり特殊なそれであることは間違いないでしょう。何故なら飛行士は子どものとき、同じ子どもがその絵を言い当てたかどうかを書いていないからです。可能性はたった一つ。王子さまは、飛行士の中にある子ども心である。そうなら彼が絵を言い当てるのも肯けます。
 この子ども心とは、子どもではなく、おとなの中に芽生えた、子ども幻想なのかも知れません。(続く)
徳間書店「子どもの本だより」2000/7.8

 王子さまは、自分の星から地球にやって来るまでに出会った人々ことを「ぼく」に話してくれます。
 一番目は、誰もがみんな家来だと思っている王様。彼はすべてが自分の命令で動いていると思わないと気が済まない。だから、王子が去る時も大使に任命したことにする。二番目はうぬぼれや。誉め言葉しか耳に入らない。三番目は呑み助。何故そんなに呑むのかと問われて、呑み助なのを忘れるためと答えます。四番目は実業屋。星を数え帳簿に付けて、それらを所有していると主張する。五番目は点灯夫。夜になったら街灯をつけるのが仕事なのですが、その小さな星は一分間で一回りするので、眠る暇がない。六番目は地理学者。探検家から聞いた話をノートに書くのが仕事。地理は知識として知っていても実際はどこにも出かけたことがない。この地理学者のオススメで、王子さまは地球にやってきます。
 地球では線路のスイッチ・マンに会う。列車で忙しく行き来する大人たち。「子どもだけが、なにがほしいか、わかっているんだな」と王子さま。次に会うのはあきんど。飲めばのどが渇かない錠剤を売っている。それで時間を節約するという。その節約された時間で水を飲みに行った方がいのになと思う王子さま。
 ここまでの話で私たちは、愚かな大人の姿の数々を指摘されます。誰もがどこか思い当たる節があるでしょう。しかし、だからといって、「子どもだけが、なにがほしいか、わかっているんだな」と王子さまがいい、スイッチ・マンが「子どもたちは幸福だな」と同調するのは、あまりに飛躍しています。それが可能なのはこの「子ども」が、生身のそれでないからなのは改めて指摘するまでもなく、想像の中としても、予め存在しているわけではないからです。そうではなく、愚かな大人や、社会に抗するものとして、かろうじて存在する「子ども」。従って常に善であり続けるのは当然です。
 象徴としての「子ども」はそれでいいのですが、登場人物になってしまった王子さまには、なんとしてでも死んで(星に帰って)もらわねばなりません。というのは、物語が王子さまの子ども時代で終わっていても、彼は必ず大人になる。もしそれを想像したくないなら、「ぼく」の王子さまへの想いは欺瞞であることが明らかになってしまうからですね。
 ここに描かれているロマンチックな子ども幻想は、西洋におけるオリエンタリズムにどこか似ています。自分をたちを中心として(自分たちを否定的にとらえていても、肯定的にでも)、そうでない文化や社会に対して、自分たちにないものを勝手に押し付けて過度に憧れてしまうという点で。
 そうそう、自分の星に咲いた花(カノジョ)への王子さまの理解度は、はなはだ低いですね。彼が子どもだから? いえいえ、マッチョだからです。だって彼は、女とは自分勝手で少し意地悪く見えても、本当は弱くて、守るべき存在だなどと考えているのですから。(ひこ・田中
徳間書店「子どもの本だより」2000/09.10