ホビットの冒険

J・R・R・トールキン 作
瀬田貞二 訳 寺島竜一 絵

        

   
         
         
         
         
         
    
    
 テーブルの上に赤い傘をつけた大きなランプがおかれますと、その光のなかにガンダルフは、地図のような形をした一枚の羊皮紙をくりひろげました。
「トーリン、これはあんたのおじいさんの書いたものじゃ。」ガンダルフは、こうふんして口々に小人たちがたずねるのに答えて、こういいました。「あの山の地図じゃ。」

 これは、物語の主人公であるホビット小人のビルボ・バギンズが、いつものように気持のいいわが家の穴の中でくつろいでいる所に、思いがけず魔法使いのガンダルフにともなって一三人のドワーフ小人が押しよせ《冒険》に引っぱりこもうとしている場面である。ウサギ穴を思わせるかわいてさっぱりした気持のいい砂の穴は、全編を通して日常的平和の象徴としての役割を果し、加えて人それぞれに適した平凡な生活の意味をも問うているのだが(事実冒険にともなう数々の災難のたびにビルボはわが家の安楽椅子に座ってタバコをふかしている光景を思い出す)、作者トールキンの胸奥には冒険に内包されるテーマの一つとして、硬貨の裏表のように《守身願望》と《変身願望》の問題が潜んでいるのはまちがいないと思える。つまり、人間の基本的衝動はより多くの人生、より多くの意識を求めるからであり、満ち足りることには健康な精神が拒絶する沈滞の空気があるとするのが一方の発想であり、このことは物語の結末にあたって、ビルボの内質が大きく変化していることと無関係ではない。
 さて、『ホビットの冒険』をユニークなものにしている要素として、主人公ビルボのキャラクターづくりがあるが、陽気で美食家、客好きで贈り物好き、平和を愛し冒険を嫌い、タバコが大好きで、取り引きなどは抜け目ないが、案外大ような所もあるというホビット族の設定は、平和な治世にある我々マイホーム型現代人の明暗二面の一面に、なんと似通ってはいないだろうか。
 問題は、物語のスタートが一般的人間像でもあるその人間臭いビルボが、ついに冒険に出発することと歩調を合わせているが、この作品が宝さがしの《冒険行》である以上、作者トールキンは人間がもつ根源的願望をまず土台にすえることを忘れていない。

 妖精の国の魔法はそれ自体が目的なのではありません。その真価はそれがもついくつかの働きのなかにあるのです。それらの働きのなかには、人間のもつ根源的願望のいくつかを満足させる、という働きがあります。そのひとつは、時間、空間の深みを探りたい、という願望です。

 これは、『ファンタジーの世界』(トールキン著・猪熊葉子訳・福音館書店)の一文であるが、この願望を(とくに子ども読者に)端的にとりだすのに《地図》ほど効果的なものはない。『ホビットの冒険』は、多忙をきわめた教職のかたわら自分の四人の子どもたちを喜ばせるために書いたといわれているが、そしてこのことはのちに自己に向かって書いた「指輪物語」と大きく異なる要素をいくつかもっているが、冒険を前にして取り出したガンダルフの宝の山の地図は、スチーブンスンの『宝島』を例に出すずとも、宝を獲得したいという欲望と同時に地図に秘められた見知らぬいやはての時間や空間を自分の足で駆けたいという願望を見る者に起こさせるものである。「はてしない」という表現は、それ自体冒険的であるが、ガンダルフの持ってきた地図は、?ーネ文字という月の光が裏から照りつける時にだけ読めるという文字が描かれていることによって、いやが上にも地図が持つ魔力を他者の胸に刻みつける。
 この冒険行は、ドワーフ小人たちがその昔自分たちのものであった宝を略奪者スマウグ(竜)から奪いかえす話であるが、忍びの者なるビルボにとっても、一四分の一の宝を手に入れる宝さがし行である。この探索にわれらの主人公ビルボがのりだす動機は極めて興味深い。地図が何よりも好きなビルボがはなれ山への不思議な地図に魅せられたことは当然だが、「そもそもわたしは、あの小男が玄関の敷物の上にそもそもやってきたのを見かけたとたんから、へんだと思いましたよ。忍びの者というよりは、八百屋のようですな」とドワーフにいわれたのを耳にしたビルボが、矢でも鉄砲でもこいというくらい激しく燃え、母方の大大大大おじのうなり牛のトックの血を感じてすごいタンカを切るというくだりは、思わず吹き出したくなる人間臭を感じさせるが、このあたりにもさりげなく前述したトールキンの思想である《守身・変身願望》の真理をかいまみせられたような気がする。つまり、大げさに言えば、人間のどんな価値にしろ初めから優劣や区別があるわけではなく、何人の中にも様々な変身要素が潜んでおり、非日常的行動を経ることによって変化したり、付加したりする可能性 をもっているということではなかろうか。平々凡々とした楽天性をもちかつ無限の可能性をもった人間とはなんともすばらしいものである。
 物語は大きく分けて三つの部分から成り立っている。私見であるが、第一部は一章から九章のはなれ山への冒険行、第二部は一○章から一四章の竜退治、第三部は一五章から一九章の五軍の戦いである。筋を追っていくと、<第一部>思いもかけず忍びのものとして同行したドワーフたちの一行が大男トロルにつかまり、火あぶり寸前のところをガンダルフの知恵で逃れ、さけ谷のエルロンドの館でエルフたちのもてなしを受け、トロルから奪ってきたグラムドリングとオルクリストの名剣のいわれを聞く。霧ふり山を越える途中ゴブリンたちにつかまるが、ガンダルフの奇襲で逃げ、一人ビルボが深い穴に落ち、ゴクリとなぞかけをし、不思議な指輪を拾って脱出する。荒地でオオカミに追われ、樹上に逃げるがガンダルフの放った火が燃えうつる。ゴブリンの追ってが近つき勝ちどきを上げるが、ワシの王のはからいで空に逃げ、熊男ビヨルンの館でもてなしを受け、一行はガンダルフと別れて闇の森に入る。巨大なクモにつかまるが姿かくしの指輪をはめたビルボの活躍で逃れるも今度は森のエルフたちにつかまり、ビルボの機知でようよう樽にのって湖の町へ到着するまで。<第二部>山の下の 王スロールの孫のトーリンが名乗りでて湖の街の人たちが歌にうたわれたその王が川を黄金にさざめかせに帰ってきたと大歓迎。町の人たちに船を仕立ててもらいはなれ山へ向かう。ビルボが秘密の穴より入り竜と対決するが、怒りに狂った竜が山を荒し、ついに湖の町を襲い町を滅ぼすが、昔谷間の町の領主ギリオンの子孫バルドによって殺される。ドワーフとビルボたちは見張り台にて様子を見守る。<第三部>大ガラスカークの息子ロアークが竜の宝を伝え、即座にエルフの大軍が宝をねらって進軍していることを知らせる。怒ったトーリンは親族のダインへの援軍をカラスに托し、表門をかためて待つほどに湖の町とエルフの軍がやってくる。トーリンは宝の所有を主張して話し合いは決裂、ビルボは夜陰に乗じて脱出し、トーリンが探していたアーケン石をさし出し話をまとめようとするところへガンダルフが現われる。ダインの軍がせめよせ、あわや決戦のときゴブリンとオオカミの大軍がやってくるも、ガンダルフのさとしでドワーフは湖の町、森のエルフは連合して迎えうつ。ワシの王や熊男ビヨルンがかけつけ、ついに勝つが、トーリンは死に、ビルボは分け前の宝のほとんどをさ し出し、ガンダルフとともに故郷へもどってくる。
 あら筋だけを拾うと以上のようであるが、トールキンはさいはての国への宝さがしという痛快大冒険のおもしろさの背後に、自分にとっての生きるテーマを模索させているように思える。それは第三部によく表われているが、このことが《冒険行》をどのように特色づけているかは後述する。今日トールキンといえば大長編「指輪物語」の作者として世界中のヤング層の人気をあおり、特にアメリカにおいてはトールキン愛好者クラブが次々とでき、ガンダルフの名前を借りた同人誌等も多いと聞いているが、反して酷しい評も少なくない。「指輪物語」については「大学教師の気まぐれな道楽」とか「価値のない、育ちすぎた子どものための物語 注」とか通俗少年小説を出ていないとかいう意見も多いが、これらはむしろトールキン個人よりも子どもの分野から発展してきた<ファンタジー>に対する攻撃として受けとめる方が妥当な場合も多いと思える。冒険小説=通俗小説の公式などあるはずもないが、『ホビットの冒険』と子どもだまし(あるいは大人だまし)の通俗小説をへだてる線は明確だ。第一に土台となっている神話的世界がどっしりした広がりと奥ゆきをもっている。これはオックス フォードで古代・中世英語を担し、その言語的関心がアングロ・サクソン、チュートン、北欧の神話・伝説へ結びつき、ついに「中つ国」というユニークな第二の世界を準創造させるに至ったのである。第二に、安直なまやかしの魔法によって都合よく物語を展開させることはせず、魔法使いのガンダルフでさえあくまでも必然的な精神(勇気、努力、正義、やさしさ等)との密着によってなしうるということ、第三に神話的民話的世界にありがちな類型的人物とは違い、主人公ビルボの内質が変化し、自己をみつめ、自己を発見し、《変身願望》をなしとげ、ついに詩人の境地に立つというあり様―主としてこの三つの部分に冒険を支えるホビット世界の評価があるのではなかろうか。
 そして、古典的な語りのゆるぎなく快い文体は、聞き手の子どもたちを意識したのか、壮大なスケールのホビット世界の津々浦々に興味深いシーンを浮き彫りにしていく。炎の海からの危機一髪の脱出や姿をかくす指輪の放つ妖しい光、奇怪でどこかかわいいゴクリとの対決、竜とバルドの一騎うち等《動》のさ中にある鮮烈な絵、同時に古い地図や名剣のいわれと魔力、リズムのある陽気な歌、エルロンドの館からみる月、早せ川の岩をかむ急流等々の神秘さ―そして読み終えて気づくのは冒険という《動》の流れにあってしばしくつろぐ大宴会やつましい食事等《静》の部分のなんと巧みなことか。のどを鳴らすビールのうまさ、肉の焼ける音、不思議な果実や植物、食卓を照らすランプ―これらが眼前に手の届くように存在し、生き生きとしたリアリティーをもつのであり、読者はいつのまにか人間くさいビルボの中に入りこみ、思わず舌つづみを打ったり、のどを鳴らしたりするのであろう。
 さて『ホビットの冒険』を宝さがし冒険行とすれば、その後続いて構想がねられ、二○年後に出版された「指輪物語」は、悪の化身サウロンの手に渡れば、全世界が悪の手に落ちるという滅びの指輪(ビルボの拾ったと同じもの)をビルボの甥のフロドがそれをオルドルウィンの火口に投じて消滅させるべく危険な旅に出る話である。つまり『ホビットの冒険』を正(プラス)の冒険行とすれば、「指輪物語」は負(マイナス)の冒険行である。だから、一方においてガンダルフは助っ人の役をおわされたのに比べ、他方において神がかり的な人間性の求道者として描かれており、また結末で一方の主人公ビルボがホビット村に帰りついて末長く幸せに暮らすのに比べ、他方の主人公フロドは灰色の港に向かうさらなる旅に出ていく。これは宝さがしという外面的即物的行為が善悪という人間に巣食う二面性の問題追求へと、外から内に向かって変化しているからであろう。これは二度の大戦をくぐってきたトールキン自身の生きるテーマでもあったと思われるが、この芽はすでに『ホビットの冒険』に見られる。つまり便宜上分けた第三部において、宝さがしと竜退治の目的が五軍の戦いによって 思わぬ善悪対立の方向へいくのである。竜を殺したのはビルボでも冒険行の仲間でもなく、谷間の町の領主ギリオンの子孫バルドであり、宝の山わけも運搬方法や返礼や昔の因縁等実際的現実的な諸問題の突然の露呈で、物語はまったく違った方向に発展していく。「指輪物語」を考慮に入れると、この現実的戦闘の意味は理解できないものではないが、

 『ホビットの冒険』は終わりのほうにいくと”妖精物語”としてのはずみを失いはじめる。出来事の起こるテンポがにぶり、「はなれ山」での待機場面は全体に物語のはじめのほうの場面より”現実的”になっている。(「トールキンの樹」コリン・ウィルソン 吉田新一訳『子どもの館』)

という意見に軍配を上げる人たちも多い。だが私は、第一部、第二部に登場するものたちが巧みな伏線によって第三部の最後の舞台にタイムリーに続々登場し、その特性をいかんなく発揮し、ついに善の側の勝利で終わり、宝は正当に分配され、ビルボにおいても割り当てられた宝を辞退したかわりに精神的なかけがえのないものを手に入れたことにより、宝さがし冒険行にユニークな幕を閉じたことになっていると評価したい。
 ともあれ、トールキンは唯一独自な世界を創造しえた作家として、また魔法が日常世界の中で衰退していく二○世紀のファンタジーの中で、願いの実現する本来のファンタジー世界を復権させた作家として賛えられるべきである。 (松田司郎

 注「トールキンの樹」(『子どもの館』一九七五年二月号)に出てくるエドマンド・ウィルソンの意見。
テキストファイル化山地寿恵