砲撃のあとで

三木卓 集英社文庫

           
         
         
         
         
         
         
     
大人になんかなりたくない

 NHK世論調査部が五年おきに行う小学生の生活と意識をさぐるアンケート調査の中に、「あなたは、早く大人になりたいと思いますか。それとも、そうは思いませんか」という質問項目がある。毎回、六〇%以上の子どもが「そうは思わない」と答えているのだが、もう少し細かく見ると、一九八四年は六八%、八九年は六五%、九四年は六一%と、その数は少しずつ減少してきている。減少してきてはいるが、今日なお、「早く大人になりたい」と思う子は少数派である。このデータは、なにを意味しているのだろうか。
 望むと望まざるとを問わず、子どもはやがて大人になる。その道行を「成長」と大人はよぶ。その「成長」を子どもは心せくほど待ち望んでいるのではないらしい。小学生が三人いれば、そのうち二人は「早く大人になりたいなんて思わない」のである。これは自然なことなのか、不自然なことなのか。
どういう時代のどういう子どもを基準にして、子どもの「成長欲求」を考えればいいのか、ぼくにはよくわからない。そこで、「早く大人になりたい」と痛切に願った少年の例を読んでみよう。
 いまの世界はなにもかも素直になっていないんだ、と少年は思った。大人たちはきっとおれのあずかり知らないところでさまざまな思惑と利害につき動かされて事を進めているのだ。少年はそれを厭なことだとは思わなかった。自分自身がまだこどもなので、その渦中に首をつっこめないことこそ残念なことだった。早く大人になって儲けるのだ。金を儲ける能力のないやつは男じゃない、と少年は思いこんでいた。こどものおれは、まねごとの金儲けしかできないで来た。これからはしかしちがう。おれはあのわけのわからない大人の世界に一日も早く入らなければ駄目なのだ。そうしなければ三木卓「曠野」

 これは、三木卓の『砲撃のあとで』(集英社文庫)という連作集の中の「曠野」の一節である。この連作は、明日をも知れぬ不安のうちに、祖国に帰る引揚船に乗りこむべく中国大陸を南下する植民者の敗戦直後の日々を、少年の眼をとおして描き出している。飢えと疫病の恐怖にさらされる旅路の果て、少年の一家はようやく無蓋貨車を連ねた帰国列車に乗りこむことができた。が、安心できたのもつかの間、無蓋貨車は突然、広野のまん中で臨時停車し、機関車だけ切り離されて遠去かっていく。これから一体自分たちはどうなってしまうのだろう。そのとき少年は引用箇所のようなことを考えていたのであった。
 逆境にあるとき、子どもは「早く大人になりたい」と切実に思う。子どもであるということは、からだが小さく、弱く、病気に対しても、暴力に対しても抵抗力がないということだ。他をおしのけ生きのびていくのに、子どもであることは圧倒的に不利なのである。
 とすれば、現代の子どもが「早く大人になりたい」とは思わないということは、それだけこの時代が子どもにとって生きやすい時代なのだ、ということを示しているのだろうか。大人の眼には、必ずしもそうは見えない。登校拒否せざる得ない子どもがどの学校にも必ずいて、「いじめ」が原因で自殺する子どもがあとをたたない。敗戦直後の混乱期と比べようもないが、いまの時代が「子どもの天国」とは到底思えない。
 もっとも、五年おきの調査で「早く大人になりたい」と思わない子どもは少しずつ減ってきている。状況の悪化は子どもの気分にも深刻な影響を与えはじめたというべきだろうか。むろん、この状況の悪化は、戦後的無秩序に近づいていることを意味しているのではない。むしろ、大人になるための「秩序」が窮屈に固定し、そのことが子どもたちに、人生の初期を障害物レースのように思わせてしまったのではあるまいか。「高校入試」に象徴されるようなハードルが、子どもたちを待ち構えている。それを歯をくいしばってのりこえることが「成長」というのなら、子どもたちが「成長拒否」気味になるのも無理ないかも知れない。
 敗走する植民者の少年の前にも、幾多の困難が立ちはだかっていただろう。しかし、それらは大人によってプログラムされた「成長のコース」などではなかった。血を流すかもしれない危険をおかして「金儲け」をするのが、少年の当面の生きのびる道だったのだ。大人になるためにハードルをこえるのではなく、生きること自体が危険にみちていて、それをうまくのりきるたびに少年は本格的な「金儲け」に一歩近づくことになるのだ。
 そういう時代ならば、子どもはだれでも大人への成長を急ぐしかない。いまは、登校拒否してもグレても、とにかく食べるのに困るわけではない。子どもでいることがとりたてて不利とも思えない。いや、働かないですむだけ子どもの方がラクだともいえる。かつてヴェトナムの母親は「坊や、大きくならないで」と歌ったが、日本の子どもは「ママ、大きくさせないで」と呟いているのだろうか。

子ども文化の消滅

 もうずいぶん昔、「早く大人になりたい」というポピュラーソングがはやった。確か引田三枝子が歌っていたのだが、アメリカのティーン・エイジャーの歌で、原題は「トゥー・メニー・ルールズ」というのだったと思う。子どもであるということは、大人よりも多くの制約を受ける立場である。「子どものくせに」とか「まだ子どもなんだから」とか、子どもはガマンを強いられたり、たしなめられたりすることが多かった。門限をきびしくきめられ、デートも思うようにはできない少女が、「早く大人になりたい」と歌うのには、それなりの必然性があったというべきだろう。
しかし、こういう子ども故の制約も最近はだいぶゆるんでいる。多分、年齢別に文化階層が形成される時代は終ったのであり、オーレンジャーに熱中する幼児期を除けば、子どもはいきなり大人たちの文化的磁場に投げ込まれるのだ。子ども文化の核であった遊びがスポーツとテレビゲームに二極分解してしまったというのが、ここ十年ほどの子ども状況である。スポーツもテレビゲームも子ども固有の遊びではない。
 サッカーにしても野球にしても、子どもたちの望みは、正規のチームを組んでの本格的な試合である。スポーツ少年団や中学校の部活に燃えている子どもは、ユニフォームを着て練習をくり返し、地区予選を勝ちぬき、全国大会出場を夢見る。各種のスポーツ小学生の段階から全国大会に組織されているのは、この世界が大人の支配下にあることを示している。大人たちはスポーツ振興の名のもとに、青田刈りどころか田植えの段階で競争原理を子どもに教え込み、よい苗を選び、育てることに熱中する。
 いまとなっては、子どもたちが自分たちだけでサッカーや野球を楽しむことは、もはやできない。大人に届け出なければ場所も借りられないし、第一メンバーがそうは集まらない。放課後自由に遊べる時間もない。学校の休み時間以外、十人以上の子どもが外で遊ぶなどということは、全国的に見てほとんどあり得ないのである。
 イチローやカズをめざして練習にあけくれるのも「成長」のためかも知れない。が、それは「高校入試」のハードルをこえていくオモテのプログラムと同様、大人の思惑の枠に自らすすんでハマることでしかない。
 かつて野球が全盛だった頃、子どもたちは狭い空き地を見つけては、三角ベースとか、バットを使わない手打ちとか、変則的なルールで彼らなりの「野球」を楽しんだ。ビニールのボールでもできたし、雨が降れば部屋の中でピンポン玉で真似ごとをしたりもした。それは正規のスポーツとしての野球と一線を画す「遊び」だったのだ。こういう草野球の伝統は急速に衰えてしまった。
 テレビゲームは、スポーツとはまた別のタイプの大人の介入によって成立した。市場を支配する大人は、遊び場に恵まれず、お互いに忙しくて仲間と集まれない子どもたちの現状を、高価な遊び道具を提供することで、一挙に「解決」する。テレビゲームは、モニターのある部屋でたったひとりでも楽しく遊べる。雨が降っても暗くなっても、少しも困らない。こんなゲームがほしかった、と子どもたちはこれを歓迎し、次々ソフトを買いつづけている。
 これはもともと若ものの遊び場であるゲームセンターのために開発されたゲームの、コンパクト化、パーソナル化である。テレビゲームのユーザーは、当然子どもに限られるものではない。特にロールプレイング・ゲームの充実によって広範囲のファンを獲得し、ハードの性能の向上とも相まって、発売後十年を経て完全にこの社会に定着してしまった。
 つまり、スポーツもゲームも子どもを選手や消費者の裾野と位置づけているのであり、したがって子どもの独自性ははじめから封じこめられているのである。子どもは「早く大人になりたい」と思っても思わなくても、すでに小さな大人なのだ。改めて大人へ仕切り直す必要はない、という状態なのだともいえるだろう。
勤め帰りの父親が電車の中で読んだ『少年ジャンプ』が息子に手渡される、ということもある。親が夜行くカラオケ・ボックスに、子どもたちが昼間出かけるということもある。
 中学生が化粧しても、タバコを喫っても、もうだれもさほど大騒ぎはしない。海外旅行のツアーの中に子ども連れがまじっているのも、有名ブランドの子ども服に人気が集まるのも、全てはこの世の流れというものだ。子ども文化と大人の文化の境界はほぼ消滅したと見ていいのではないか。
「早く大人になりたい」と願う内的必然性が、こうして失われる。

異端者の栄光をこえて

 ぼくは、子どもはうっすら不幸であるのがいいと思う。大人たちがどんなに理解を示し、手厚く保護してやっても、子どもの欲求不満を完全に解消することはできない。子どもは「大人はわかってくれない」と嘆きつつ、自分たちの力で間に合わせの「つもりの世界」を構築し、その欲求不満に耐えるのである。それが本来の子どもの遊びであったのだ。
 そして、その欲求不満が成長の根源でもあった。子どもであるという理由だけで自分は不当に扱われている、という強い思い込みが、子どもを育てるのである。クローディアも、ナルニア国におもむいたペベンシー家の子どもたちも、真夜中の庭を見たトムも、みんなうっすら不幸だった。不幸であるからこそ、現状を変えたいと願っていたし、まわりの世界が思うように変わってくれないなら、自分を変え、別の次元に旅立たねばならない、と気づいたのである。
 いま、日本の子どもたちはうっすら不幸であろうか。べったり不幸だとも、うっすら幸せだともいえるだろうが、理想的な状態でないことは間違いない。大人になることは、いまの制約から解放されることであるかも知れないが、また新たな制約を受けることでもある。どちらの制約がガマンしやすいか、といえば、これはどちらともいえない。ここがまず気持ちがスッキリしない理由の第一点である。
 子どもたちの見るところ、いまの大人はそう幸せそうには見えない。働き過ぎて死ぬ人もいるし、リストラで職を失う人もいる。車やバイクに乗れるのはいいが、運転免許をとるのに莫大なお金がかかるらしい。車がローンだということも、むろん知っている。それなら、父親の運転する車の後部座席でゲームボーイをやっている方が気楽かも知れない。
 子どもでなくなることで失うものと、大人になることで得られるものの損得勘定を何度やり直してみても、スッキリ結論がでないのである。でも、と子どもはいう。「お金持ちならなってもいいな。」
 大人になりたいかと問われれば、ちょっと考えるけれど、金持ちになりたいかと聞かれて答えを口籠る子はいない。金持ちになりさえすれば、「子ども」の得な部分と「大人」の得な部分を、全部手に入れることができるのだ。ドライブしたければ湾岸道路をポルシェで飛ばし、疲れたときは運転手つきのロールスロイスでゲームを楽しむ!
 金持ちになりたいというのは大人の夢でもある。大人も子どももいまの欲求不満を完全に解消できる唯一の道は金持ちになることだと思い、同時に自分はおそらくそうななれないだろう、とあきらめている。中国大陸の限界状況を生きた少年が「金儲け」したいから早く大人になりたいと願った、あの切実さはもうない。「金儲け」はむずかしそうだ。だから子どもは、芸能人に憧れ、スポーツ選手を夢見る。金持ちのイメージでいちばんわかりやすいからである。
 もう一つスッキリしないことがある。それは「成長」というのは、自分ですることではなくて、大人たちにさせられることなのではないか、という疑惑に発している。小学校低学年のときは、高学年になったら大変なのだからいまのうちに、とドリルをやらされ、高学年になると、中学にそなえるようせきたてられ、中学に行けば今度は高校入試である。
 いつでも、行く先々にゴールが示され、そのゴールは近づいて見れば実はハードルである。これが一つこえればまた一つと、未来に向かってずっとならんでいるらしい。それは子どもに選べることではなく、コーチの指導にもとづいて、ただヤミクモに走って、結果を出さねばならないのだ。一体、自分は何に向かっているのか。どこへ行こうとしているのか。そういうことを考えていると、とたんにスピードが落ちてコーチに怒鳴られるのだ。
 子どもたちは、バスに乗っている。次の停留所はわかっている。その次も大体わかる。しかし、そのバスの終点はどこなのかだれも知らない。これが子どもにとっての「成長」である。不安になってバスを降りると、落ちこぼれと言われ、登校拒否だ、問題行動だと大人たちがよってたかって、またバスに乗せようとする。
 「早く大人になりたい」と思わない子どもたちに、「いつまでも子どもでいたいか」とたずねたら、おそらくその答えも「そうは思わない」だろう。いま子どもであるのは選びようのない現実であり、やがて大人になることも逃れようのない運命である。かくて子どもは、とりあえずのいまを生きるしかないのだ。
 仕上がり寸法が決まっている未来像から逆算して、いまの子どもたちの「あるべき姿」を規定し、ゴールに錯覚させてハードルをこえさせる「成長」に、子どもたちはうんざりしている。それは子どもたちの日常会話に、「ムカツク」ということばがひっきりなしに用いられていることからも明らかである。
 しかし、うっすら不幸な子ども時代の終りころ、「ムカツキ」の根源がもしかしたら自分自身にあるのではないか、という唐突な疑いに直面することにもなるだろう。本当の自分に出会う旅に旅立つ子どもも確かにいる。クローディアのように家出する子もいるし、学校へ行くのをやめて引き籠る子どももいる。
 いまの自分にあき足らなくなったとき、子どもは自己嫌悪とたたかいながら、バスではなく徒歩で歩きはじめる。地図らしい地図もなく、コンパスも持たないで歩きはじめた子どもたちを、しかし世間の大人たちは、決して成長のための苦悩にみちた旅立ちだなどとは見なしてくれない。その孤独の中で不幸は煮つまっていく。
 児童文学が得意とする「成長」は、こういう異端者の栄光である。それが悪いというのではないが、それだけでよいというものでもない。「早く大人になりたい」などとは思わない今日の子どもの日常をふまえて制度的な成長コースのウラオモテを暴露すること、成長させたがる大人たちと手を切って、成長という抗しきれないメカニズムを分析することなどにも力を注ぐべきではあるまいか。
 実際、変に老成した子どもや、大人のために無邪気な子どもを演じる子、周囲のほとんど全てに関心をもとうとしない子、成長を拒むあまり拒食症に陥る子どもさえ、いまは少なくない。
 この先どうなるか全くわからないという不安を、不安と自覚せずに、無知、無防備ゆえの非力と諦めつつ生きる子どもたちを、真に勇気づけ、安心させるためには、典型的な成長物語の提示だけでは足りない。いま大人たちが同時代の子どもに語るべきは、まず明日のことなどわからない、という真理であろう。大人にも、本当は明日のことなどわかってはいないのだ。
 いまの大人のようになりたくなかったら、いまの大人の知らない生き方を目指した方がいい。そのためにぼくたち大人は知る限りのことを子どもたちに情報として伝えるべきだが、それはすべて失敗例なのだと注釈するくらいの謙虚さが必要なのではあるまいか。(斎藤次郎)
日本児童文学1995/09特集◆ <成長テーマ> を問い直す「成長」という神話
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